発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 09:37 UTC 版)
1907年(明治40年)3月6日 - 丹羽郡西成村の瀬部尋常小学校と時之島尋常小学校が合併して丹羽郡西成第一尋常小学校となる。 1940年(昭和15年)9月20日 - 西成村と一宮市が合併したことで愛知県一宮市瀬部尋常小学校に改称。 1941年(昭和16年)4月1日 - 愛知県一宮市瀬部国民学校に改称。 1945年(昭和20年)7月13日 - 南校舎を戦災で焼失。 1947年(昭和22年)4月1日 - 一宮市立瀬部小学校に改称。 1950年(昭和25年)11月10日 - 運動場拡張、校舎の改築。 1952年(昭和27年)3月3日 - 2階建て校舎の完成。 1959年(昭和34年)9月26日 - 伊勢湾台風のため相撲場と体育器具の倒壊。 1968年(昭和43年)3月16日 - 学校自家給水施設を一宮市上水道に切り替え。 1970年(昭和45年) - 校歌の制定。 1975年(昭和50年) - プールの完成。 1983年(昭和58年) - 校地を拡張。この際に校庭の大銀杏(雄雌)を移動。とくに雄の大銀杏は校庭の中央近くにあり瀬部小学校のシンボル的存在だったが、移動に伴い枝を落としてしまったため昔の面影は無くなった。 2007年(平成19年) - 開校100周年。
※この「発足後」の解説は、「一宮市立瀬部小学校」の解説の一部です。
「発足後」を含む「一宮市立瀬部小学校」の記事については、「一宮市立瀬部小学校」の概要を参照ください。
発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
彼我の海軍力の差を知る海軍は対米戦争回避派が主流であったが、嶋田海相は「海相一人が反対して戦機を逸するのはよくない」として「対米開戦派」に同調する。だが東郷外相は着任早々に外務省内の親独派を更迭して対米交渉推進論で外務省をまとめた。さらに日本が近衛首相という「文民政権」から、東條首相兼陸相という戦争の開戦に向けた「軍事政権」への切り替えが行われたと、当然ながらイギリスやアメリカなどの民主主義国家に受け止められた。 さらに、名目上は当時のコーデル・ハル国務長官によるが、実際は後にヴェノナ文書の公開で発覚したアメリカ合衆国政府内部に潜伏しソ連(コミンテルン)のスパイとして諜報活動もしていたハリー・ホワイト財務次官補(ヘンリー・モーゲンソー財務長官の部下の一人)によって書かれたハル・ノートを、アメリカ政府による日本政府への「最後通牒」と勝手に受け取ることで対米交渉を断念し、東條内閣は開戦論に転向した。これにより東條内閣は対アメリカ合衆国、イギリスおよびオランダ等連合国への開戦に固まった。 日本時間12月8日の英領マレー侵攻および真珠湾攻撃による開戦後ほどなく、昭和天皇の名により「米国及英国ニ対スル宣戦の詔書」が渙発され、東條首相は「大詔を拝し奉りて」と題してラジオ放送を通じて日本国民に向かって決意を表明した。また、4日後の同年12月12日の閣議決定において、第1次近衛内閣以来すでに戦闘を行っていた日中戦争(支那事変)も含めて、対連合国との戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。 その後、開戦の翌年に第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)を実施するにあたり、東條は兼任していた内相を退任し、後任として生え抜きの内務官僚である湯沢三千男が就任した。一方で東條は、作戦への指導力を高めるため、統帥権干犯の疑義を越えて参謀総長をも兼任する。しかし然したる実効力はなく、かえって東條批判を増すばかりであった。 さらに戦時体制強化のため、大東亜省・軍需省をはじめとする省庁再編、人材登用、中央集権化を行った。東條自ら軍需大臣を兼任した結果、商工大臣だった岸信介は国務大臣兼務のまま軍需次官に異例の「格下げ」となった。一時は陸軍省・海軍省を解体し、「国防省」に再編する構想まであった。その中で、大東亜省設置に反対して東郷外相が辞任。さらに東京都制と市町村長の官選導入を柱とした市制・町村制改正に関わる帝国議会の審議過程で、翼賛政治会の反感を買った湯沢内相が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は日本軍の敗退・戦局悪化とともに弱体化していった。 一方で首相経験者などの重臣たちと、昭和天皇の実弟の一人である高松宮宣仁親王海軍大佐らを中心とした皇族グループ(重臣の近衛文麿は皇族ではない華族であったが摂家の筆頭であり公爵で、立場的に皇族に準じる)による倒閣工作が水面下で進行していく。対抗して東條は、重臣の閣僚起用で乗り切りを図る。 しかし、マリアナ沖海戦とそれに伴うサイパン陥落によりアメリカ軍による本土爆撃(日本本土空襲)が容易になったことから、岸信介商工相(戦後に首相も歴任)が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言し、「ならば辞職せよ」という東條首相の要求を岸が拒絶したため閣内不一致となり、1944年(昭和19年)7月9日のサイパン陥落の責任を取る形で7月18日に東條内閣は総辞職した。後継には小磯國昭が首相に就任し、小磯内閣が成立した。
※この「発足後」の解説は、「東條内閣」の解説の一部です。
「発足後」を含む「東條内閣」の記事については、「東條内閣」の概要を参照ください。
発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:02 UTC 版)
2022年(令和4年)4月 : 北海道農業共済組合連合会と道内5つの農業共済組合が合併し、1組合化が完成。北海道農業共済組合が発足する。
※この「発足後」の解説は、「北海道農業共済組合」の解説の一部です。
「発足後」を含む「北海道農業共済組合」の記事については、「北海道農業共済組合」の概要を参照ください。
発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 06:17 UTC 版)
1991年(平成3年)3月16日 - 秋田車掌区大館派出所と大館運転区を統合し、大館運輸区発足。 2018年(平成30年)12月1日 - 大館駅業務委託化に伴い、大館駅所属の輸送社員が当運輸区所属となり、信号・操車業務も行う。 2020年(令和2年)3月14日 - 大館運輸区と弘前運輸区、青森運輸区を統合し、つがる運輸区として、再編成。
※この「発足後」の解説は、「大館運輸区」の解説の一部です。
「発足後」を含む「大館運輸区」の記事については、「大館運輸区」の概要を参照ください。
発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 06:06 UTC 版)
1922年(大正11年)春季からは帝室御賞典が下賜され倶楽部が解散される1937年(昭和12年)まで年1回春季に施行された。1923年(大正12年)に(旧)競馬法が公布され、同年11月16日からは馬券発売の伴う競馬の開催が始まり、1931年(昭和6年)春季には日本で初めて複勝式馬券の発売が始まった。 1936年12月10日に日本競馬会が設立されたのに伴い、1937年6月に倶楽部主催として最後の競馬が開催され、同年7月31日に日本競馬会に統合される形で解散した。 なお、福島競馬場の障害競走コースのバンケットには福島競馬倶楽部のローマ字表記の頭文字であるFKCの文字が施されており名残となっている。
※この「発足後」の解説は、「福島競馬倶楽部」の解説の一部です。
「発足後」を含む「福島競馬倶楽部」の記事については、「福島競馬倶楽部」の概要を参照ください。
- 発足後のページへのリンク