発足時の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:12 UTC 版)
1994年(平成6年)4月25日、細川内閣の退陣に伴い、自由民主党・日本共産党を除く与党7党1会派(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)と、自民党を離党した議員により結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が、新生党党首の羽田孜を国会で首班指名した。 新生党代表幹事の小沢一郎、公明党書記長の市川雄一、民社党書記長の米沢隆を中心とする「ワン・ワン・ライス」が主導する政権運営に反発する新党さきがけと、結成して間もなく、また「第3極」路線を打ち出していた新党みらいは閣外協力を表明した。 首班指名直後、社会党の影響力低下を目指して新生、日本新、民社、自由、改革の会の5党が統一して衆院会派「改新」の結成を発表。ところがこれには社会党が強く反発し、翌26日に連立政権からの離脱を表明。この結果羽田内閣は少数与党内閣として発足することになった。 この混乱から組閣には手間取り、28日になってまず午前8時55分に羽田が参内して首相の親任式に臨み、組閣が完了したのはその日の午後で、改めて皇居で閣僚の認証式を行なったのは午後6時15分からだった。このためこの9時間余の間は首相がすべての各省大臣の臨時代理と大臣庁等の委員長・長官の事務取扱を行なった(一人内閣)。 内閣官房長官の熊谷弘は「いずれにしても暫定的な内閣だと覚悟していた。どうやって連立を維持すれば次の段階にいけるかと。(連立与党内は)正直言ってばらばらになりかけていた。新生党内もそうだったんじゃないかな。僕は党レベルの動きには一歩遅れた。情報が無いわけじゃないんだが、次々と進行するから少しずつずれてね」と述べている。 外相には自民党を離党したばかりで自由党の柿沢弘治が抜擢された。 法相の永野茂門が就任直後、「南京大虐殺はでっち上げ」と発言したことが問題となり、就任11日目で辞任に追い込まれた(事実上の更迭)。
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