「ワン・ワン・ライス」
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1990年(平成2年)2月18日、第39回衆議院議員総選挙において公明党が議席数を減らすと、それまでの社会党との共闘志向を修正する。親交のある自民党幹事長の小沢との関係を強めた(「一・一ライン」)。さらに民社党書記長の米沢隆を交えた親密な関係は、後々まで「ワン・ワン・ライス」と呼ばれた。 1993年(平成5年)6月、宮澤内閣の不信任決議案が成立すると、公明党は、自民党を離党した羽田派が結成した新生党と連携する。同年7月18日の第40回衆議院議員総選挙において、自民党は議席数が過半数割れとなり、政権交代が実現した。同年8月に発足した細川内閣において、公明党からは公明党委員長の石田幸四郎ら4人が入閣し、市川は公明党書記長として党執行部運営の最高責任者となった。 1994年(平成6年)12月、公明新党を経て、新進党の結成に参加し、新進党政務会長に就任する。 1995年(平成7年)7月23日、第17回参議院議員通常選挙での新進党の躍進に力を振るうが、このことが自民党による「新進党=創価学会」との批判を呼び起こすことになった。 長年続いてきた小沢との蜜月関係も次第に亀裂が生じるようになり、1995年(平成7年)12月に行われた新進党党首選では、小沢に対抗して立候補した羽田孜を支援するが、小沢は羽田を破り党首に就任。市川は新進党副党首に就任する。1996年(平成8年)10月20日、第41回衆議院議員総選挙において新進党は議席数を減らす。 1997年(平成9年)10月、新進党党首の小沢と公明代表の藤井富雄との会談で、当初年内に予定されていた公明の新進党への合流が見送り・白紙となる。新進党は、元首相の細川護熙も離党するなど党内が分裂状態に陥り、同年12月に解党された。1998年(平成10年)、元新進党の公明新党出身議員は新党平和を結成し、市川は新党平和副代表に就任する。 1998年(平成10年)11月、公明党が再結成され、公明党副代表に就任する。1999年(平成11年)10月、自公連立による小渕内閣が発足。公明党常任顧問に就任した。 1998年、元公明党委員長の竹入義勝が朝日新聞に55年体制の回顧録を連載した際は、同紙上で反論を行うなど、竹入を批判する中心となった。
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