55年体制の崩壊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 05:56 UTC 版)
1993年の嘘つき解散で自民から羽田孜・小沢が離党し、新生党を結成する。7月の衆院選で自民が過半数割れに追い込まれると、社公民3党との連立政権構想に参加し、細川護煕が結成した日本新党・武村正義が結成した新党さきがけとともに、非自民・非共産連立政権となる細川連立政権を誕生させる。政権内では「与党代表者会議」のメンバーとなったワン・ワン・ライス(特に小沢・市川の「一・一・ライン」)が大きな影響力を持ち、これが結果的に政権の崩壊と自社さ政権の誕生を招いた。 1994年、新党の旧自民系と公民両党統一野党・新進党が結成される。しかし、民社の一部(塚本三郎・大内啓伍ら)は創価学会を背景とする公明との合流を嫌い、自民に移籍した。 1997年に新進党が崩壊すると、旧公明の大半はいったん衆議院で新党平和、参議院で公明に分かれたが、1998年に再統合して公明党に戻った。旧民社は新党友愛を結成したが、ほどなく民主党に移籍した。いずれも、新進党の後継である自由党に移行したのは一部に留まった。自由党移行組も、2003年の自由党と民主党との合併で、民主党に移った。 1999年の自自公(自民・自由・公明)連立政権発足以来、自公保(自民・公明・保守)、自公連立と政権の枠組みは変わったが、2009年の第45回総選挙に敗れて下野するまで、公明はかつての自公民路線とは違い、大臣を送り込む正式な連立与党の一員となった。自民は非自民連立政権を経て、閣外で他党を利用する余裕がなくなり、大臣の座を用意しなければならなくなったと言えるだろう。一方、民社党出身者は大部分が民主党(一部は自民党、みんなの党、日本維新の会、維新政党・新風などに分かれた)と与野党に別れたが、第45回総選挙で民主党が勝利し、与野党が入れ替わった。公明は、野党となった自民からは距離を置くと表明したが、2010年の第22回参院選など、選挙では一定の協力関係を維持している。 自公民路線も消えたわけではない。2005年の第44回総選挙中の9月9日には、自民の武部勤は「自民党、公明党、旧民社党の3つが1つになった方が安定する」「これから新しい憲法の制定も考えなければならない。そういうことも視野に入れている」と民主党内の民社系に、新たな自公民路線を呼びかけた。さらに、総選挙で自民が大勝すると、自民党内では改憲に消極的な公明を切り、積極的な民主の民社系・保守系と組めばよいとの議論も起きている。2007年11月には福田康夫が小沢一郎に“自公と民主の大連立”を持ちかける党首会談を行い、小沢に断られている。
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