細川内閣
(細川連立政権 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 09:49 UTC 版)
細川内閣(ほそかわないかく)は、衆議院議員、日本新党代表の細川護熙が第79代内閣総理大臣に任命され、1993年(平成5年)8月9日から1994年(平成6年)4月28日まで続いた日本の内閣。 非自民・非共産8党派の連立政権である細川内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来、38年間単独政権を維持し続けた自由民主党(自民党)が初めて下野し、55年体制が崩壊した。
注釈
- ^ 1994年(平成6年)4月11日、新生党入党。
- ^ 細川には社会党・護憲民主連合76、新生党60、公明党52、さきがけ日本新党52、民社党19、無所属3(徳田虎雄、鳩山邦夫、山口敏夫)が投票。河野には自民党221、無所属3(玄葉光一郎、高市早苗、竹下登)、不破は共産党15、山花は社会党1(岩垂寿喜男)、無所属1(岡崎宏美)。
- ^ 細川には社会党・護憲民主連合71、公明党24、民社党8、民改連11、新生党7、第二院クラブ2(島袋宗康、西川潔)、日本新党4、無所属5(赤桐操、紀平悌子、椎名素夫、新間正次、安恒良一)が投票。河野には自民党93、不破は共産党11、白票はスポーツ平和党2、二院ク2(青島幸男、下村泰)。
- ^ 元首相の孫が首相となったのは内閣制度創設後、細川が最初である。その後は2006年(平成18年)に第90代首相に就任した安倍晋三は第56・57代首相の岸信介の孫、2008年(平成20年)に第92代首相に就任した麻生太郎は第45代・48–51代首相の吉田茂の孫、2009年(平成21年)に第93代首相に就任した鳩山由紀夫は第52–54代首相の鳩山一郎の孫と、計4例ある。また2007年(平成19年)に第91代首相に就任した福田康夫は第67代首相の福田赳夫の子である。
出典
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、平成5年8月9日
- ^ 『官報』号外「第127回国会衆議院会議録第2号」、平成5年8月6日付
- ^ 『官報』号外「第127回国会参議院会議録第2号」、平成5年8月6日付
- ^ 中曽根康弘『天地友情 五十年の戦後政治を語る』1996年、文芸春秋、p14~16
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断P104
- ^ 週刊文春2005年31号P190~191(ワイド大特集 戦後60年重大事件の目撃者 私は現場にいた!) 「細川政権誕生を決定づけた田中秀征「この指とまれ」作戦」
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断P107
- ^ a b c “コメの部分開放 非自民の細川連立政権だから決めることができたのか”. 朝日新聞デジタル. (2023年10月6日) 2023年10月12日閲覧。
- ^ 細川護熙「内訟録 細川護熙総理大臣日記」日本経済新聞出版社、2010年、p96~97
- ^ 社会保障費用統計, 厚生労働省
- ^ 前掲「内訟録 細川護熙総理大臣日記」p97~98
- ^ 細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった (正論2002年7月号)
- ^ 細川元首相の動向注目、小泉氏と連携で「勝機」
- ^ a b 五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編、90年代の証言 森喜朗 自民党と政権交代 (90年代の証言) 朝日新聞社、2007年、159-160頁
- ^ 前掲「内訟録 細川護熙総理大臣日記」p504~505
- ^ 週刊エコノミスト2019年1月15日号、平成経済30年史、小沢一郎・自由党共同代表、80頁
- ^ 薬師寺克行「村山富市回顧録」岩波書店、2012年、p144~145
細川連立政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 14:26 UTC 版)
1993年7月、自民党分裂と新党ブームで迎えた衆議院選挙で社会党は再び惨敗し、結党以来最低の70議席に落ち込んだ。それでも社会党は自民党に次ぐ第二党だったが、山花は連立協議を仕切る新生党の小沢一郎代表幹事が裁定した日本新党・細川護煕党首の内閣総理大臣指名を認め、8月の非自民・非共産8会派連立内閣にこぎ着けた。これは政構研の考えていた大連立内閣の枠組みで、政構研は佐藤を入閣させた。社会党にとって41年ぶりの政権参加だったが、国民から社会党への期待は薄かった。 一方、入閣した山花は選挙敗北の責任を取って辞任し、9月には村山が新委員長になった。新体制でも政構研の影響力は強く、副委員長に大出俊、山口鶴男、書記長に久保亘、政審会長に日野市朗、参院会長に浜本万三が執行部入りするが、新生党や日本新党に主導権を取られる政権運営のあり方や、連立政権と社会党の基本政策の違いなどが社会党内部や政構研内部で議論された。1994年4月、細川が退陣して羽田孜内閣が発足した際、小沢による社会党外しに憤慨した村山は閣外協力も取りやめた。政構研では久保や佐藤が連立残留を主張したが、村山は山口や大出の支持を取り付けた。これで政構研の分裂が明確になり、社会党内の右派対左派という組み分けはイデオロギー的根拠を失った。
※この「細川連立政権」の解説は、「政権構想研究会」の解説の一部です。
「細川連立政権」を含む「政権構想研究会」の記事については、「政権構想研究会」の概要を参照ください。
- 細川連立政権のページへのリンク