社公民路線の破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 05:53 UTC 版)
1992年にPKO国会のPKO法の賛否をめぐって社公民路線は完全に破綻した。公明・民社はPKO法案成立に積極協力し、議事妨害封じのための宮澤内閣信任決議案に賛成投票するなどもした。しかし、自民は公民を与党として遇することはなく、野党が分断されただけに終わった。社会党も表向きは自民党と対決していたが、裏では国会対策委員長会談などで根回しして妥協する「国対政治」が依然として常態化していた。実際、自民党梶山静六-社会党村山富市両国対委員長が同法案で根回しに尽力し政局は、安定した。自民党の金丸信は、互いに「マムシとナマズ」と呼び合う盟友田邊誠を通じて、自民党と社会党右派(田邊や久保亘など)を巻き込んだ大連立を企図していた。社会党を重視する金丸信に対して、小沢一郎は公明党、民社党を重視し、市川雄一、米沢隆との親密な関係(ワン・ワン・ライス)を築いた。7月の参院選で社公民の選挙協力が失敗し惨敗する。
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