社共共闘時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 17:10 UTC 版)
「社会党 (フランス)」の記事における「社共共闘時代」の解説
1972年6月にミッテランはユーロコミュニズム路線を推し進めていたフランス共産党と左翼政府共同綱領を締結し、1973年の国民議会選挙(総選挙)で復調を得た。1974年、ジョルジュ・ポンピドゥー大統領が任期中に死亡したことにより実施された大統領選挙に左翼統一候補として再びミッテランが立候補、ヴァレリー・ジスカール・デスタン(独立共和派)に敗北するも僅差まで迫った。 1974年の末に、かつてSFIOから分離した統一社会党(PSU)からリーダーのミシェル・ロカールを含めた一部メンバーが再合流した。彼らは左翼キリスト教徒と非マルクス主義のグループを代表し、党内で最も保守的なメンバーとして、フランスの社会主義が市場経済を明確に受け入れたヨーロッパの社会民主主義路線であるべきことを主唱した。また、社会党の議席増加の勢いは共産党を恐れさせ、両党は共同綱領の更新に失敗した。 世論調査の前人気にもかかわらず、左翼連合は1978年の総選挙で敗北したが、1936年以来初めて社会党は共産党より多くの議席を獲得し、左翼第一党の地位を得た。この結果は党内部の危機を引き起こした。ミッテランの社共共闘路線に対して、ロカールは共同綱領が古めかしく非現実的であり捨てることを要求したのである。ミッテランは引き続き社会党と共産党の間の同盟なしで左翼が勝つことができないとして、ロカールに人気があったにもかかわらず1979年の党大会で勝利し、1981年の大統領選挙の社会党候補に選ばれた。
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