社会主義批判
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また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年(1908年)には社会主義者福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。 内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。 内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論をロシア革命以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった。
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