社会主義政党との連立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)
「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「社会主義政党との連立」の解説
同年5月5日に新たに社会主義者たちが入閣することで第一次連立政府が成立する。この連立政府において、ミリュコーフおよび官房長ナボコフを除いて、カデットの大臣は留任することとなった。一方で、同月に開かれた第8回党大会においては、社会主義政党との連立政権に否定的なミリュコーフら多数派に対し、連立に積極的な少数派のネクラーソフが批判を展開するという一幕があった。戦争政策、土地問題、民族自治といった問題についても意見の一致を見ず党内には分裂の兆しが見られた。 7月になると、ウクライナで自治を求めていた組織「ウクライナ中央ラーダ」に対し、臨時政府から派遣されたミハイル・テレシチェンコらが独断で自治を認めてしまうという問題が生じた。ウクライナの民族自治に反対する立場のカデットはこれに反発し、カデット所属の閣僚らは辞任した。ネクラーソフは例外であり、ついにカデットを離党して閣僚の地位に留まった。 その後に成立した社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーを首相とする第二次連立内閣では、主導権を握ることはなかったものの、カデットからココシキンら4人が入閣した。ケレンスキーは、カデットの協力を求めるために大幅に譲歩しなければならなかったという。とはいえ、ミリュコーフがケレンスキーを「疑いなく全ロシアがそのおかげを被っているような人」と評したように、カデットは新ロシアの指導者としてケレンスキーに大きな期待を寄せていた。 しかし、カデットと政府内の社会主義者(メンシェビキ、社会革命党)との溝は深まっていった。さらに同年7月23日から28日にかけて行われた第9回党大会では、カデットの支持率はボリシェビキを下回り、予定される憲法制定会議選挙で苦戦するだろうという報告が行われた。この大会において、ミリュコーフは、社会主義革命がロシアに破滅をもたらすと主張し、「ロシアをこのような破滅から救うために、あらゆる方途が許されるだろう」と言ったという。 第一次世界大戦におけるロシアの敗勢も覆らず、階級間の対立も激しくなった。ケレンスキーに対する期待は失われ、カデットの中央委員会では臨時の措置として「独裁官」を設置する必要性が公然と議論された。こうしてカデットは軍事独裁による強力な政権の樹立を志向するようになった。そして、軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフがクーデターを実行すると、カデットはコルニーロフを支持する立場に回り、カデットの閣僚たちは辞任した。そのため、クーデターが失敗に終わるとカデットは大きな打撃を受ける。クーデターを支持したミリュコーフやココシキンはクリミアでの謹慎を余儀なくされ、代わってナボコフが党を代表するようになった。 社会主義勢力はカデットからの再度の入閣には否定的であった。しかし、この頃には有産層全体を支持基盤とするようになっていたカデットを外しては、社会主義勢力は有産層との連携をたもつことは難しくなっていた。結局、社会主義政党の大臣の一部もカデットとの連立をやむを得ないと考えるようになり、社会主義勢力はナボコフの主導するカデットとの妥協を余儀なくされた。その結果、第三次連立政府においても副首相アレクサンドル・コノヴァーロフ(英語版)らがカデットから入閣することとなった。
※この「社会主義政党との連立」の解説は、「立憲民主党 (ロシア)」の解説の一部です。
「社会主義政党との連立」を含む「立憲民主党 (ロシア)」の記事については、「立憲民主党 (ロシア)」の概要を参照ください。
- 社会主義政党との連立のページへのリンク