教友会の結成
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1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。 この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では宇都宮、岩手県では花巻に結成された。そして明治39年(1906年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年(1907年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。
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