教員と執筆活動
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1927年(昭和2年)3月、広島高等師範学校を卒業すると、そのまま鹿児島歩兵第45連隊に幹部候補生として10か月間入隊した。1928年(昭和3年)1月31日に除隊した後、4月に岐阜県立第二中学校(現・岐阜県立加納高等学校)に教員として赴任。同年6月に郷里・植木町の医師・師井淳吾の娘・敏子と結婚した。4歳年下の敏子とは小学生の時から顔見知りで、敏子の父親が開業する医院に、熊蜂に刺された小学校5年生の蓮田少年が来院したこともあった。 1929年(昭和4年)4月、長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)に転任するが、1931年(昭和6年)2月から雑誌『国語と国文学』に評論を発表し初めていた蓮田は向学心に燃え、1932年(昭和7年)3月に同校を退職し、4月に、27歳で広島文理科大学(現・広島大学の文学部、教育学部、理学部の構成母体)国語国文学科に入学した。この年に上海事変が始まり、五・一五事件が起こった。 翌1933年(昭和8年)9月、蓮田は同人研究紀要『国文学試論』を春陽堂から発行した。この『国文学試論』の同人は、清水文雄、栗山理一、池田勉を加えた4人で、のちの『文藝文化』の母胎となる。この時、清水は成城高等学校(現・成城大学)に赴任して2年目で、栗山は大阪府立中学校の教師になったばかりであった。 1935年(昭和10年)3月に広島文理科大学を卒業し、4月に台中商業学校に赴任し、妻子と共に台湾に渡った。翌1936年(昭和11年)8月に大阪堺市の栗山理一宅で、伊東静雄と初めて逢った。この年の2月に二・二六事件が起こり、翌1937年(昭和12年)には支那事変が勃発して日中戦争となった。執筆活動は『国文学試論』の他、『国語と国文学』などで続けられた。
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