伊東静雄とは? わかりやすく解説

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いとう‐しずお〔‐しづを〕【伊東静雄】

読み方:いとうしずお

[1906〜1953]詩人長崎生まれ。「コギト」「四季」「日本浪曼派同人詩集に「わがひとに与ふる哀歌」「夏花」など。


伊東静雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 07:02 UTC 版)

伊東静雄

伊東 静雄(いとう しずお、1906年明治39年)12月10日[1] - 1953年昭和28年)3月12日)は、日本詩人京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。

来歴

長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身[1]。魚屋の丁稚の子として生まれる[2]。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した[1]。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った[3]

長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て[1]京都帝国大学文学部国文科に学んだ[1]。在学中の1928年、大阪三越の懸賞募集児童映画脚本で童話『美しき朋輩達』が一等当選となり[1]、原作者「壁 静」名義で映画化された(監督・清水宏、脚本・水島あやめ、制作・松竹[4][5][6]

1929年に京都帝国大学を卒業すると[1]、公立学校教員となり、大阪府立住吉中学校(現:大阪府立住吉高等学校)教諭となった[1]。旧制住吉中学時代には、『古事記』を教えていたことと、その流行を追わないスタイルから「コジキ」というあだ名をつけられていた名物教師だったというエピソードが残っている。

詩作は大学卒業の頃より始めた。1932年(昭和7年)、同人誌『呂』を創刊[1]。のち『呂』を離れて、1933年頃から同人誌『コギト』に専念する[1]。1935年(昭和10年)10月5日、処女詩集であり代表作となる『わがひとに与ふる哀歌』を発行し[1]萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛を受け一気に名声を高めた[注釈 1]。伊東は、日本浪曼派の代表的な詩人となり、評論では保田與重郎とならんで、同時代に多大な影響を与えた。また、日本古典文学やリルケの造詣の深さに由来する、浪漫的で日本的な叙事詩に耽美性を加えた伊東の作風は、少年期の三島由紀夫にも多大な影響を与えた[注釈 2]。伊東も三島の作品を見てその才能を買ったが、のちに直接面会してそりが合わず、三島を「俗人」と切り捨てた[2]

1940年(昭和15年)には第二詩集『夏花』を刊行[1]。1941年(昭和16年)には三好達治中原中也立原道造らとともに、詩同人誌『四季』同人となる[1]蓮田善明とも交流があり、蓮田が最後に出征する際、蓮田の乗った列車を大阪駅で見送っている。

1943年(昭和18年)9月5日に第三詩集『春のいそぎ』を刊行[1]。1947年(昭和22年)に第四詩集『反響』を刊行[1]。1948年、大阪府立阿倍野高等学校に転勤[1]。詩作活動に耽る傍ら、地方公務員の教員としても勤務し続け、生涯教職から離れなかった。

1953年(昭和28年)3月12日、肺結核のため、大阪府河内長野市の国立大阪病院長野分院(現:国立病院機構大阪南医療センター)で死去[1][7]。死後まもなく『反響以後』が刊行された。戒名は文林院静光詩仙居士。

忌日に近い3月末の日曜日には、菜の花忌が営まれ[8]、諫早市の伊東静雄顕彰委員会によって、優れた現代詩を賞する伊東静雄賞が設けられている[8]

家族

  • 父・伊東惣吉(-1932) ‐ 旧姓・榎並(徴兵逃れのため伊東家に養子入り)。魚屋の奉公人を経て、家畜の仲買で財を成し、綿糸商のほか、さまざまな商売に携わった。地元では諫早家に次ぐ高額所得者であったが、小学生の静雄は「豚博労の子」と嘲笑された。知人の無尽の保証人となったことから、死後静雄に借財を残した[9][3][4]
  • 母・ハツ ‐ 旧姓・内田。夫が負債を残したまま死亡したことから諫早の家を売却し、静雄の大阪の家などを転々とした[3][9]
  • 弟・伊東寿恵男
  • 妻・花子 ‐ 旧姓・山本。奈良女高師出身の堺市立高等女学校の地理の教師で、静雄の下宿先の同居人の友人だった。1932年に結婚し、一女一男を儲け、1936年より黒山高等実践女学校に勤務。静雄はこの結婚を父の残した一万円の負債を返済するためと公言した[10]
  • 長女・坂東まき ‐ 詩人[11][12]
  • 長男・伊東夏樹

作品

詩集
  • 『わがひとに与ふる哀歌』(杉田屋印刷所、コギト発行所、1935年)
  • 『夏花』(子文書房、1940年)、北村透谷賞受賞
  • 『春のいそぎ』(弘文堂、1943年)
  • 『反響』(創元社、1947年)、復刻 竹林館 2005年
再刊著作

伝記

研究評伝

  • 小川和佑『伊東静雄論』五月書房 1973年
  • 小川和佑『伊東静雄論考』叢文社 1983年
  • 田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』日本図書センター 2003年
  • 山本皓造『伊東静雄と大阪・京都』「ソフィア叢書5」竹林館 2002年
  • 永藤武『伊東静雄論・中原中也論』おうふう 2002年
  • 米倉巌『伊東静雄 憂情の美学』 審美社 1985年
  • 三宅武治『伊東静雄 その人生と詩』花神社 1982年
  • 野村聡『伊東静雄』審美社 1996年
  • 城戸朱理『詩人の夏 西脇順三郎と伊東静雄』矢立出版 1994年
  • 高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』双文社出版 1992年
  • 溝口章『伊東静雄―詠唱の詩碑』土曜美術社出版販売 1998年
  • 青木由弥子『伊東静雄 戦時下の抒情』土曜美術社出版販売 2023年

脚注

注釈

  1. ^ 萩原朔太郎が編んだ『昭和詩鈔』(冨山房百科文庫、復刻1977年)にも収録された。
  2. ^ 三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と三島を励まし作品を評価している。しかし、戦後公開された日記の中では、三島のことを「俗人」「三島から手紙。面白くない。背伸びした無理な文章」などの酷評が残されている。また伊東が三島を「吹けば飛ぶような小才子」と評したとの証言も明らかにされた。三島は『新潮』1966年11月号に「伊東静雄の詩 わが詩歌」で「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」と述べ、三島に与えられた「俗人」という評価に抗しつつ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛し、全集推薦の辞でも「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。
  3. ^ 第7刷が最終。刊行後に判明した追補資料が別刷りで添付されている
  4. ^ 収録作品は、伊東静雄詩集(わがひとに与ふる哀歌/夏花/春のいそぎ/反響抄/反響以後/拾遺詩篇より)と、日記抄。
  5. ^ 16歳から23歳までの書簡133通と資料解説
  6. ^ 近年発見され、高校時代より大学国文科をへて中学校教員になるまでの日記5冊分を、編者による詳細な注釈を付け完全収録。編者の柊和典・吉田仙太郎・上野武彦3名は、伊東が住吉中学校(旧制)の教員時の生徒。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 三宅武治『伊東静雄 その人生と詩』花神社、1982年10月、222-223頁。 
  2. ^ a b 伊東静雄と三島由紀夫涌井隆、言語文化論集 14 (2), 277-297, 1993-03-30 名古屋大学言語文化部
  3. ^ a b c 年譜新しき古典 伊東静雄の詩の世界、伊東静雄研究会
  4. ^ a b 伊東静雄の思い出江川ミキ(実姉)、昭和四十七年六月十八日、伊東静雄研究会
  5. ^ 美しき朋輩たち松竹
  6. ^ 戦時下の文学〈その八〉安永武人、同志社国文学 号 14, p. 10-43, 1979-03
  7. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)35頁
  8. ^ a b 長崎・諫早市出身の伊東静雄の詩 合唱や朗読 「菜の花忌」市民ら100人集う”. 長崎新聞社 (2024年3月25日). 2025年7月14日閲覧。
  9. ^ a b 反転する<故郷>・伊東静雄論田中 俊廣 「活水論文集」(活水女子大学・短期大学). 2001.
  10. ^ 伊東静雄の住居山本皓造、昭和文学研究26巻 (1993)
  11. ^ 『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社、編集後記
  12. ^ 旧友へ 伊東静雄の書簡発見 諫早出身の浪漫派詩人 遺族が寄贈 長崎新聞、2021/06/19

関連項目

外部リンク


伊東静雄

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三島由紀夫」の記事における「伊東静雄」の解説

日本浪曼派詩人三島伊東を〈私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ〉と述べている。伊東の詩『春の雪』の影響は、少年時代三島の詩『大詔』や小説晩年の『春の雪』にまで及んでいる。伊東葉書で、「これからも沢山書いて新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と17歳三島励ました三島のことを日記に「俗人」と記したこともあったが、その後は再び激励している。

※この「伊東静雄」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「伊東静雄」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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