シャンハイ‐じへん【上海事変】
上海事変
上海事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 00:14 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ロバート・ショート(英語版)中尉を撃墜した加賀飛行隊。左から生田大尉、黒岩3空曹、武雄1空。後方に3式2号艦戦(1932年2月22日) 訓練中の加賀。手前が九〇艦戦、その後ろ九四艦爆、さらにその後ろ八九艦攻(1937年) 九六艦攻と加賀 1932年(昭和7年)、第一次上海事変が勃発。加賀の実戦参加となり、日本の空母としては初の実戦参加でもあった。空母鳳翔、軽巡洋艦3隻(那珂、阿武隈、由良)、駆逐艦部隊(沖風、峯風、沢風、矢風)が行動を共にした。これを初の機動部隊とする意見もある。 1月29日佐世保を出港、翌30日馬鞍群島沖に到着、31日から作戦行動を開始。同日、虹橋飛行場上空にて初めて中国空軍機を目撃する。 2月5日、飛行機隊と陸戦隊が上海に進出した。同日、加賀飛行隊の平林長元大尉指揮の一三式艦上攻撃機2機は鳳翔飛行隊の所茂八郎大尉指揮の三式艦上戦闘機3機の護衛のもと、閩北・真如方面の敵情偵察に向かい、中国空軍第6隊副隊長・黄毓銓らの操縦するユンカース K47(英語版)、ブラックバーン リンコック III各1機、V-65Cコルセア(英語版)2機と日中初の空中戦を展開し、双方損害なく引き分けた。ただし、朱達先の操縦していたリンコック IIIは、この時の尾翼への被弾が原因で、数時間後に黄毓銓が乗り換えて再発進離陸した直後に墜落した。黄毓銓はこの事故で死亡し、また先に被弾重傷を負っていた朱達先も数日後に死亡した。 また同日、加賀飛行隊は玉井大尉率いる戦闘機隊、園山大尉および矢部譲五郎大尉率いる偵察隊2個小隊を同地に派遣したが、真如駅北上空にて敵陣地を確認爆撃しようと降下した第2小隊長機が地上砲火により撃墜され矢部大尉以下3名が死亡、また勝部兵曹の同小隊2番機も増槽に被弾した。飛行隊は陣地に6発爆撃し帰還した。 2月22日、加賀飛行隊の三式艦戦3機、一三式艦攻3機の編隊が、テストパイロットとして来中していたアメリカ退役軍人ロバート・ショート(英語版)元中尉の操縦するボーイング218と空戦となり、艦攻1機が被弾し指揮官・小谷進大尉が戦死したものの、B218を撃墜。日本陸海軍を通じて初の撃墜を記録した。野村吉三郎第三艦隊司令長官は加賀航空隊の功績に表彰状を与えた。 2月26日午前5時、加賀から小田原俊郎大尉率いる爆撃隊の13艦攻9機、援護隊として鳳翔から所茂八郎大尉率いる3式艦戦6機が飛び立ち、杭州・筧橋飛行場への爆撃を実施。しかし、その前日に第2隊副隊長石邦藩と黄秉衡航空署長が飛行場の航空機を全て20キロ離れた喬司機場へと移動させており、また迎撃に上がった石邦藩の操縦するユンカース K47(英語版)と第6隊分隊長・趙普明のコルセアV-92Cに、瀧山文明二空曹の13艦攻第3小隊の2番機および安延多計夫大尉の第3小隊1番機がそれぞれ撃墜されたが、乗員6名はいずれも銭塘江にて澤風に救助された。渥美信一大尉率いる第5小隊3機、所茂八郎の第4小隊機は銃撃でそれぞれ石邦藩と趙普明両名ともに重傷を負わせ、のち石は左腕切断、趙は死亡した。また、第4小隊3番機の斉藤武雄三空曹も石機、趙機とは別の単葉機撃墜を報告した。このほか、爆撃隊は5機地上撃破、また石機を追撃していた渥美小隊は石機の不時着地点からわずか400m先に喬司機場と中国空軍機22機(日本側は12機と記録)を発見、稼働中の2機に銃撃を浴びせ、1機撃破確実を報告した。午後1時、喬司機場発見の報を受けた機動部隊は空襲隊を喬司へと殺到させたが、中国空軍は飛行機を更に蛙埠へと移動させており、空振りに終わった。 3月3日、停戦により作戦中止、22日、寺島水道に帰着した。
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