第三艦隊司令長官
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1942年(昭和17年)11月1日、第三艦隊司令長官。空母部隊だったが、小沢もその幕僚も空母での作戦経験があるものはいなかった。小沢は先任参謀・大前敏一と参謀・有馬高泰を重用し、参謀長・古村啓蔵は軽視された。航空参謀・田中正臣は、小沢は自ら決し幕僚に細目を計画させる指揮官先頭型で実戦型という意味では満点に近いが、飛行機に対する知識が絶対的に不足しており、艦長が持っている程度の知識で訓練や性能の意味を良く知らなかったと評価する。 小沢はミッドウェー海戦の図面を書いて即座に「暗号がもれてるぞ」と気づき、山本祐二中佐に徹底的に調査するように命令したが、調査した山本は「絶対に海軍の暗号はもれてません」と回答した。しかし小沢はその後も暗号がもれていると注意していた。 1943年(昭和18年)4月、連合艦隊長官・山本五十六の指揮の下でい号作戦に参加。 11月、ろ号作戦に参加。小沢はラバウルの第一航空戦隊、草鹿任一中将指揮下の基地航空部隊を合わせて指揮し、第一、第二ブーゲンビル島沖航空戦を戦う。約半数のパイロットを失い、機材の80%を失った。空母2隻を含む10隻の米艦船撃沈を報告したが、実際は米艦船に撃沈はなかった。 1944年(昭和19年)3月1日第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官。6月、マリアナ沖海戦で指揮。小沢は旗艦に軍楽隊を乗せていったほど勝利を信じていた。652空飛行隊長として出撃した阿部善朗大尉は、甲板を散歩する小沢はいかにも頑固そうで尊大ぶった印象で航空部隊の運用についてどれほど勉強したか、飛行隊の実情をどこまで把握しているのか疑問に感じたという。 小沢は「ミッドウェー海戦で日本がやられたように敵空母の飛行甲板を壊すこと」「相討ちはいけない、負ける」「味方の艦を損傷させてはいけない、人命より艦を尊重させる、飛行機は弾丸の代わりと考える」「ミッドウェーの失敗を繰り返さないように絶対に敵より先に漏らさず敵を発見する、攻撃兵力を割いても索敵する、三段索敵を研究せよ」「陣形は輪形陣でなければならない」と幕僚に指示し、攻撃は2段とし、まず零戦の爆撃で先制奇襲し甲板を破壊し主隊の飛行機で反復攻撃し撃破、追撃は前衛戦艦が全軍突撃するという案にした。 小沢は、航空作戦にアウトレンジ戦法を採用するが、日本側の航法援助の未熟さ、諸原因による搭乗員の練度の低さ、米側の直掩機やVT信管による迎撃などのために失敗に終わる。基地航空隊や前衛艦隊(栗田健男司令官)が米軍機動部隊が同一海面で行動していると報告したが、小沢は第三艦隊偵察機の「米軍機動部隊は3箇所に分散している」という報告を信じて攻撃隊を向わせた。結局、栗田艦隊の報告が正しく、100機近い攻撃隊が空振りとなった。米機動部隊は日本の攻撃隊を各個撃破し「マリアナの七面鳥狩り」と揶揄した。6月20日、小沢は夜戦で挽回する準備をするが、連合艦隊長官の命令で撤退した。海戦後、小沢は敗戦の責任をとって辞表を作成している。本作戦では、パイロットの訓練をタウイタウイで中断させたことが練度低下につながり、さらに未熟な技量のパイロットに難しい戦法をやらせてしまった問題が指摘される。 小沢は、タウイタウイの航空基地の存否を確認するため幕僚を派遣するなどの措置を取らなかったこと、空母「大鳳」被害直後に第二艦隊長官・栗田健男に指揮継承の電報をしなかったことは一生の不覚だと回想している。また、小沢によれば「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた」という。しかし、第二航空戦隊参謀・奥宮正武少佐は、議論までしなかったが、大鳳の打ち合わせで、練度に自信がないため、反対意見を述べたという。また、角田求士は海戦後、搭乗員から「打ち合わせで遠距離攻撃は現在の技量では無理と司令部と議論した」と聞いたという。軍令部航空参謀源田実中佐も小沢の幕僚に忠告したという。 遠距離の米空母に気を取られた小沢艦隊は米潜水艦に空母「大鳳」、「翔鶴」を撃沈され、20日に空母「飛鷹」も撃沈され、太平洋戦争中空母9隻を同時に指揮できた1回の好機を生かすことができなかった。また機動部隊艦載機の86%を失う結果となった。 指揮下の第二航空戦隊参謀として参加した奥宮正武は、米空母を一隻も沈められずに(マリアナ沖とレイテ沖で)大小空母七隻がやられた責任の大半は小沢にあり、敗北後も小沢司令部は高級参謀が「勝敗は時の運」と話していたと語っている。また、積極的性格の角田覚治が機動部隊の指揮をとり、緻密肌の小沢が基地航空隊を指揮した方が、双方にとって適性だったと述べている。 10月13日、台湾沖航空戦に参加。 10月24日、レイテ沖海戦に参加。日本の機動部隊はすでにその航空能力(搭載機)の過半を失っていたため、第三艦隊は囮部隊としてウィリアム・ハルゼーの機動艦隊を引き付ける役割を担った。空母機動部隊による牽制策は夏には作成が始まっていた捷号作戦で想定していたことだったが、囮とする発想が強調されたのは台湾沖航空戦の後、連合艦隊司令長官・豊田副武の発案によって取り入れられた。 しかし、米側の主力機動部隊である第3艦隊第38任務部隊が囮の第三艦隊ではなく、主力の栗田健男中将率いる第一遊撃部隊を先に発見して航空攻撃を加え、第三艦隊を10月24日午後まで発見しなかった。このため、第一遊撃部隊は戦艦「武蔵」を航空攻撃で失うなど大きな損害を出し、10月24日の牽制作戦(航空攻撃)は徒労に終わった。だが小沢は第三艦隊から発進した攻撃隊が米軍機動部隊に大きな損害を与えたとして、戦艦「日向」「伊勢」を突出させ、残敵を掃討するよう命じた。この前衛艦隊は、翌日空襲を受ける直前に空母部隊と合流した。翌10月25日には米第3艦隊の目を引き付けたものの、適切な通信連絡すら齟齬を来たす程の航空攻撃により旗艦「瑞鶴」は早々に作戦能力を喪失し、旗艦設備の整った軽巡洋艦「大淀」に司令部を移乗する事態に陥った。第三艦隊司令部を収容した「大淀」の戦闘詳報には連合艦隊司令部の杜撰な指導に対する批判もあるが、一方で米正規空母群に対する牽制、誘致に努めるべき時機、期間、すなわち、第一遊撃部隊に対して自在の航空攻撃を許さないのはいつからいつまでであるべきかという観念を欠いていたと小沢の指揮への批判もある。レイテ沖海戦について海戦の計画の精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合の処置としては他に方法がなかった」という。 10月25日から特攻作戦が開始され、小沢の指揮下からも特攻隊が編成され出撃している。小沢の部隊では、701空の一部を特攻部隊へ抽出、また634空の一部で梅花隊を編成し、特攻させている。
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