第一遊撃部隊(第二艦隊)
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「捷号作戦」の記事における「第一遊撃部隊(第二艦隊)」の解説
「あ」号作戦を終えて6月24日に内地に帰投した第二艦隊は、直ちに次作戦に向けて急速整備を開始した。同部隊も整備と並行して対空兵装の増強が行われ、7月2日までに記録のある艦だけで以下の艦艇に25mm対空機銃が追加された。 戦艦大和:15挺、長門:76挺、金剛:60挺 重巡洋艦高雄:34挺、摩耶:27挺、鈴谷:37挺、利根:37挺 軽巡洋艦能代:20挺 駆逐艦清霜:14挺(この他13mm機銃も4挺追加) 一方、艦隊参謀長の小柳冨次少将は上京し、次期作戦に向けての準備を如何にするか聞くべく大本営に向かった。しかし、あ号作戦の大敗直後で中央も混乱の最中であり、具体的構想を聞くことはできず、ただ嶋田繁太郎軍令部総長より「内地にある燃料も乏しいので南方のリンガ泊地に向かい、燃料の豊富なそこで錬成に励み次作戦に向けての準備をする」という話を聞いただけだった。小柳は引き続き横須賀の連合艦隊司令部のある軽巡洋艦・大淀に向かい、同じく次期作戦の具体的構想を聞こうとしたが、これまた明確な回答を得られなかった。なおこの時小柳は艦隊旗艦を愛宕から大和に変更したい旨の希望を述べたが、賛同を得ることはできなかった。旗艦変更問題に関しては、第二艦隊の上級司令部である第一機動艦隊でも首席参謀が6月28日に提出した連絡事項の中で「第二艦隊の旗艦を武蔵型として第一戦隊を直率とし、第四戦隊は次席指揮官を置く」よう要望しているが、これも連合艦隊は却下している。 6月28日、第二艦隊は第一機動艦隊司令部より7月5・6日に陸軍部隊を搭載してシンガポールに向かい、その後リンガ泊地で訓練を実施しつつ待機するよう内意を受けた。先発して第五戦隊(橋本信太郎少将指揮)の重巡洋艦妙高・羽黒と駆逐艦秋霜・早霜が、あ号作戦での損傷の修理もせぬまま緊急の物資を搭載したうえで6月30日に出撃、7月4日にマニラ、8日にザンボアンガに寄港したうえで12日にシンガポールに到着。物資揚陸と損傷修理を行った。 主力は甲部隊・乙部隊の二手に別れてシンガポールに向かうこととしたが、修理の手間取った戦艦榛名、油槽船護衛任務中で内地に向かっている第32駆逐隊(藤波・玉波)、補給部隊護衛が控える第十戦隊所属の朝雲・浦風と第四戦隊の摩耶は内地に残留した。 甲部隊第四戦隊(摩耶欠)、第一戦隊(長門欠)、第七戦隊、第二水雷戦隊(二十七駆・三十一駆・島風・浜波) 乙部隊第三戦隊(榛名欠)、長門、最上、第十戦隊(朝雲・浦風欠) 両部隊は7月9日に出撃し10日に沖縄に寄港して揚陸を開始、先に終えた甲部隊は同日19時には出撃、16日にはマラッカ海峡入り口に到着し第一戦隊と駆逐艦時雨・五月雨・島風はリンガ泊地に、残りはシンガポールに向かった。乙部隊は沖縄での揚陸を終えた12日に出撃しマニラへ向かう。17日にはマニラを出撃し20日にはリンガ泊地に到着した。 内地残留組もそれぞれの役割を終え次第リンガ泊地に向かい、第32駆逐隊は7月26日、榛名及び護衛の第4駆逐隊は8月21~27日、摩耶・朝雲・浦風は7月23日にそれぞれ泊地に到着した。 以後、部隊は次期作戦に向けて訓練を開始する。 1944年7月30日、連合艦隊司令部は「八月一日附聯合艦隊兵力部署改定 第一遊撃部隊指揮官-第二艦隊司令長官 兵力-第二艦隊、第十戦隊(一部欠)、第十六戦隊、秋津洲」と内報を発した。31日に第十六戦隊の編入は取りやめとなったが、他は発動された。8月1日、旗艦大淀にて内地在泊の各部隊司令官や参謀長、各艦長らを集めて作戦会議を開いたが、第一遊撃部隊はリンガ泊地にあり参加できなかった。このため連合艦隊参謀神重徳と軍令部参謀榎尾義男がマニラに飛び、南西方面艦隊司令部にて司令長官三川軍一以下司令部要員、第一遊撃部隊からも参謀長小柳冨次と作戦参謀の大谷藤之助がマニラまで来て、8月10日に会議を行った。 小柳は、第一遊撃部隊を船団攻撃のためレイテ湾に突入させるという作戦を聞き、「この計画は、敵主力との撃滅を放棄して、敵輸送船団を作戦目標としているがこれは戦理の常道から外れた奇道である。我々は飽くまで敵主力撃滅をもって第1目標となすべきと考えているのだが。」と主張した。これに対し、神は「敵主力の撃滅には、機動部隊の航空兵力が必要です。しかしサイパン攻防戦で大打撃を受けた機動部隊と航空隊の再建には、少なくとも半年の日時が必要です。いまは、その余裕が全くありません。同時に敵が次の目標としているのがフィリピンであることは明白です。そこでフィリピンの基地航空兵力と呼応して、第一遊撃部隊の全力をもって敵上陸船団を撃滅していただきたい。それがこの作戦の主眼なのです。」と答えた。また、神は「フィリピンを取られたら本土は南方と遮断され、日本は干上がってしまいます」「したがって、この一戦に聯合艦隊をすり潰しても、フィリピンを確保できるのなら、あえて悔いはありません。国破れてなんの艦隊やある。殴り込みあるのみです。これが長官のご決心です。」と発言した。さらに小柳が「敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能です。よって、栗田艦隊はご命令どおり輸送船団を目指して敵港湾に突進するが、万一、途中で敵主力部隊と対立し、二者いずれかを選ぶべきやという場合、輸送船団をすてて、敵主力の撃滅に専念します、差支えありませんか?」と確認し、神は「差し支えありません。」と答えた。 翌11日まで南西方面艦隊司令部員と打ち合わせが行われ、リンガ泊地に帰着後翌日に第一遊撃部隊所属の司令官、艦長らに作戦説明が行われた。従来の方針から大きく異なる水上艦艇による輸送部隊攻撃の作戦に現場指揮官達は唖然とし、不満、非難の声がでたが、それを抑えて泊地内に突入して攻撃することを念頭に置いた訓練計画を作成。小柳の陳述では下記の5種に区分して実施したと述べている。 湾内投錨艦船への攻撃法 夜戦訓練 対空戦闘訓練 電探射撃訓練 夜戦での星弾使用法 第一戦隊司令宇垣纏少将は、自身の日誌戦藻録の9月20日の記述で、自身の座乗する戦艦大和に小柳参謀長、山本祐二参謀が来艦したので、自身の意見として「輸送船団を攻撃するよりも敵主力部隊との決戦を模索すべき」と述べたと記述している。他にも、サマール沖海戦当日の記述に、栗田長官が米機動部隊への追撃を取りやめてレイテ湾への突入を再開する指令を出した事を「何を考えたか」と記述をしている。利根艦長として参加した黛治夫は、栗田司令部が25日昼にレイテ湾突入を取りやめて敵主力部隊攻撃に向かう決断をしたことを「当然である」と戦後に述べている。 9月10日、第一機動艦隊司令長官の意見具申を受けて、第二遊撃部隊に配備予定だった戦艦扶桑・山城で新たに第二戦隊を再編し、第一遊撃部隊に配置換えすることになり、司令官に西村祥治中将が任命された。同戦隊は第17駆逐隊の護衛の下10月4日にリンガ泊地に到着し第一遊撃部隊と合流した。この際第一戦隊の長門も第二戦隊への異動が決められていたが、第一遊撃部隊や第一戦隊からの反対があり、これに関しては従来通りのままとなった。
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