第一遊撃部隊の攻撃と反転
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「第一遊撃部隊の攻撃と反転」の解説
シブヤン海海戦後、一度西に向かい米軍に撤退中と思わせた第一遊撃部隊は再び東に針路をとり進撃を再開、25日午前0時35分にサンベルナルジノ海峡を無事通過してフィリピン東側の海域(フィリピン海)に進出した。機動部隊を指揮するハルゼー大将と、攻略部隊を指揮するキンケイド中将が、互いにサンベルナルジノ海峡の封鎖を他方の分担と思っていたためであった。午前6時45分、第一遊撃部隊は攻略部隊に属する護衛空母部隊の1群(第77任務部隊第4群第3部隊:通称タフィ3)と遭遇し交戦状態となる。不意をつかれた護衛空母群は、艦載機のほか駆逐艦の雷撃で反撃を試みながら退避した。2時間余りの戦闘で栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈し、護衛空母3隻と駆逐艦1隻に損傷を与えたが、第一遊撃部隊も護送空母からの迎撃機の執拗な攻撃や、護衛駆逐艦の奮闘により、重巡洋艦「鈴谷」が沈み、「鳥海」、「筑摩」が大破航行不能(後に沈没)、「熊野」が大破撤退と4隻もの重巡洋艦を失った(サマール沖海戦)。 敵が護送空母部隊ではなく大型空母で構成される機動部隊の一群だと思っていた第一遊撃部隊はある程度の損害を与えたことで追撃を中止し、11時頃よりレイテ湾への進撃を再開する。しかしその頃になって南西方面艦隊から9時40分頃の情報として栗田艦隊の北100 kmの地点「ヤキ1カ」に機動部隊が存在するという電文が届いた。第一遊撃部隊はこの他にも 本来の突入時期は上陸から2日以内だが既に5日も経過しており、攻撃目標の船団は既に上陸を終えた可能性があり、突入しても上陸した部隊は遠く射程外まで進出していたり、揚陸した物資が何処にあるのか把握できない状態である可能性が高く、突入しても空の輸送船を攻撃するしかなく、戦果を期待できない。 協同すべき第3部隊らが戦線離脱しており米攻略部隊による集中攻撃を受ける危険がある。実際この時点でもタフィ3とは別の護送空母部隊による第一遊撃部隊への空襲が継続して行われており、機動部隊からの連絡がない事もあり司令部は囮作戦が成功していると確信できなかった。 突入しても戦果を上げれないのなら、北方にいる敵機動部隊を捕捉殲滅した方が、基地航空隊による米機動部隊への攻撃が空振りに終わっている事もあり、戦局に貢献できると考えた などを考慮した末に撤退を決意、12時36分より反転北上を開始する。一方のオルテンドルフ部隊は第3部隊を壊滅に追い込んでのちに北上、一部補給を済ませ第一遊撃部隊の迎撃に向かう。従来この部隊は弾薬が欠乏していて第一遊撃部隊は難なく撃破できたといわれていたが、実際はもう1回戦う余力が残っており、また周囲には上記の通り攻撃されなかった護送空母部隊2部隊と、偶々ハルゼーの部隊と別行動をとっていたマケイン中将の第1群が第一遊撃部隊への空襲を仕掛けており、第一遊撃部隊が突入を継続してたとしても、上陸地点に戦力を残したまま到着するのは非常に難しい状況だった。実際に反転北上をして後も艦隊は空襲を受け続け、軽巡洋艦「矢矧」などが損傷、翌26日には軽巡洋艦「能代」が沈み、駆逐艦「早霜」が損傷し座礁、放棄となっている。
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