第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死
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「西村祥治」の記事における「第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死」の解説
9月23日、第二戦隊は第17駆逐隊(雪風、浦風、磯風、浜風)に護衛されて呉を出撃、10月4日リンガ泊地に到着した。そして西村は、10月21日に急遽編成された第一遊撃部隊第三部隊(通称「西村部隊」。戦艦山城(旗艦)、戦艦扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦4隻(満潮、山雲、朝雲、時雨)の計7隻。)指揮官として捷一号作戦(レイテ沖海戦)に参戦すべく、10月22日にブルネイを出撃した。10月24日から25日の深夜、西村部隊は単独でスリガオ海峡に突入したが、待ち受けたアメリカ軍に丁字戦法で迎え撃たれた。魚雷とレーダー射撃による波状攻撃、さらに翌朝の追撃により、西村部隊は駆逐艦時雨を除いて全滅した(スリガオ海峡夜戦)。西村も、旗艦山城(10月25日 04:19に沈没)と運命を共にした。享年56(満54歳没)。 西村の発した最後の命令は「われ魚雷攻撃をうく、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」(10月25日 03:40)、西村から機動部隊指揮官(もしくは第一遊撃部隊指揮官)に宛てた最後の発信は「我、レイテ湾に向け突撃、玉砕す」であった。 西村の最期については「山城#レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)」および「レイテ沖海戦#壊滅」を参照
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