第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死とは? わかりやすく解説

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第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 01:25 UTC 版)

西村祥治」の記事における「第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死」の解説

9月23日第二戦隊は第17駆逐隊雪風浦風磯風浜風)に護衛されて呉を出撃10月4日リンガ泊地到着した。そして西村は、10月21日急遽編成され第一遊撃部隊第三部隊通称西村部隊」。戦艦山城旗艦)、戦艦扶桑重巡洋艦最上駆逐艦4隻(満潮山雲朝雲時雨)の計7隻。)指揮官として捷一号作戦レイテ沖海戦)に参戦すべく、10月22日ブルネイ出撃した。10月24日から25日深夜西村部隊単独スリガオ海峡突入したが、待ち受けたアメリカ軍丁字戦法迎え撃たれた。魚雷レーダー射撃による波状攻撃、さらに翌朝追撃により、西村部隊駆逐艦時雨除いて全滅したスリガオ海峡夜戦)。西村も、旗艦山城10月25日 04:19沈没)と運命を共にした。享年56(満54歳没)。 西村発した最後の命令は「われ魚雷攻撃をうく、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」(10月25日 03:40)、西村から機動部隊指揮官もしくは第一遊撃部隊指揮官)に宛てた最後発信は「我、レイテ湾に向け突撃玉砕す」であった西村最期については「山城#レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦)」および「レイテ沖海戦#壊滅」を参照

※この「第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死」の解説は、「西村祥治」の解説の一部です。
「第一遊撃部隊第三部隊指揮官、戦死」を含む「西村祥治」の記事については、「西村祥治」の概要を参照ください。

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