捷号作戦
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捷号作戦(しょうごうさくせん)は、第二次世界大戦中に日本陸海軍が計画した比島・台湾・本土方面で基地航空部隊によって敵を要撃する作戦[1]。決戦方面によって一号から四号まで定められ、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に捷一号作戦が発動された。
注釈
- ^ 当時、第一遊撃部隊は小沢長官の第一機動艦隊の指揮下にある
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 一般作戦方針 2項
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 友軍の作戦
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦㈠第一遊撃部隊
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦🉂本隊
- ^ 後年小沢はGHQの調査による陳述書において、この時の事を「中略…余りにも拙い微力な航空戦力を以てしては、全水上部隊の主力となりえず、僅かに水上艦艇の偵察か上空警戒を担当する程度の実勢にすぎないであろう。このような航空戦隊に乗艦して、私が戦艦部隊を含めて水上部隊の最高指揮官となることは砲戦力を主とする栗田中将の自由な指揮を拘束するばかりでなく、その作戦遂行上も不利が多いと考え、豊田大将の希望案に対して強く反対した。」と述べている
- ^ あ号作戦時の軍隊区分では前衛部隊
- ^ 以降第二艦隊は「第一遊撃部隊」と区分される
- ^ 但し松浦五郎中佐と山田武中佐は米軍のテニアン侵攻時は同島不在で玉砕の難を逃れ、引き続き第一航空艦隊参謀として寺岡中将の司令部に参加している
- ^ 一航艦司令部が陸路移動の途上、意見具申の為に司令部へ向かっていた戦闘第九〇一飛行隊長の美濃部正大尉と出会い、彼の「艦隊司令部からの敵上陸の報を受けたダバオ第二基地にいたが、基地から湾内を一望しても何処にもそのようなものは見えなかった」「ダバオ第一基地の零戦で自分自身が飛んで湾内を確認するので、それまで司令部の移動をまってほしい」などの進言を受け、移動を一時見合わせる。美濃部はダバオ第一基地に向かい、1時間後に発進し湾内を偵察、敵が居ないことを確認し信号を発信、ミンタルに到着していた司令の寺岡は美濃部の報告を聞いて「ダバオ地区に敵上陸の事実なし」との取り消し電報を部内全軍に発令した、との美濃部の著書や戦史叢書(37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)には記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、一航艦の主席参謀猪口や事件後に調査した軍令部参謀の奥宮はいずれも偵察は玉井が行ったと著書に記述している。
- ^ これは捷号作戦の基地航空隊への各作戦要領のなかで現存する唯一のものである
- ^ この原因は配備機数の遅れではなく、稼働機数の低下が主因である。前線に届いても部隊整備能力の低下や、不適切な製造による紫電や銀河など新鋭機の品質低下などの理由により稼働できない機が続出した
- ^ 第二航空艦隊司令長官指揮下の陸軍飛行第九八戦隊のこと
- ^ 黒田は米軍がルソンに直接上陸すると考え戦力の過半をそこに配置。南部には2個旅団程度、中部には配置しないよう考えていたが南方総軍は分散配備と考え、方面軍の頭越しに海軍や航空軍と調整し方針を固め、それを方面軍に押し付け方面軍に統帥の余裕を与えなかった
- ^ これは所属空母の中で、航空機の準備が間に合わず未搭載の空母が何隻かあった場合でも、状況によっては連れて行く場合があるという意味であり、「艦隊自体に航空機がなくても空母を囮として連れて行く」という意味ではない
出典
- ^ 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 101-102頁
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで まえがき
- ^ 戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾 孝生、村井友秀、野中郁次郎『失敗の本質—日本軍の組織論的研究』(中公文庫、1991年)
- ^ a b 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 101頁
- ^ 戦史叢書81 大本営陸軍部<9>昭和二十年一月まで 52頁
- ^ 『失敗の本質—日本軍の組織論的研究』(中公文庫)
- ^ 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 104-105頁
- ^ 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 105頁
- ^ 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 111頁
- ^ 防衛研修所1970a, p. 84.
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- ^ 防衛研修所1970a, p. 60.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 69.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 74.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 76.
- ^ 連合艦隊捷号作戦要領「(二)作戦要領→1航空部隊→第5第6項」
- ^ 防衛研修所1970a, p. 100.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 101.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 21.22.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 23.
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- ^ 大岡次郎, p. 31.
- ^ 小柳冨次著「栗田艦隊 レイテ沖海戦秘録」pp51-52
- ^ 佐藤和正著「レイテ沖海戦~日米海軍最後の大激突」上巻pp93-94
- ^ 小柳冨次著「栗田艦隊 レイテ沖海戦秘録」53p
- ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版)の最初の回答。
- ^ 防衛研修所1970a, p. 569.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 370.
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- ^ a b 防衛研修所1970a, p. 52.
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- ^ a b c 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.340.
- ^ 奥宮正武 1996, 電子版, 位置No.912.
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- ^ 防衛研修所1971a, p. 3.120.121.
- ^ 防衛研修所1971a, p. 202.
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 454頁
- ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで 456頁
- ^ 防衛研修所1970a, p. 571.
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- ^ 防衛研修所1970a, p. 600.
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- ^ 防衛研修所1970a, p. 647.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 682.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 683.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 684・685.
- ^ 『失敗の本質—日本軍の組織論的研究』(中公文庫)、中尾裕次「捷号作戦準備をめぐる南方軍と第十四軍との葛藤」『軍事史学』第30巻第1号、1994年
- ^ 防衛研修所1970a, p. 50.
- ^ 小柳冨次は特攻兵器の基地としている(小柳冨次『栗田艦隊—レイテ沖海戦秘録』光人社NF文庫、1995年、P57)
- ^ 防衛研修所1970a, p. 344.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 345.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 346.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 347.348.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 349.
- ^ 防衛研修所1970a, p. 351.
捷一号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 03:13 UTC 版)
1944年6月27日、小沢治三郎第三艦隊司令長官は、次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した。水上戦闘、タンカーの代用、第四航空戦隊(隼鷹、日向、伊勢)の護衛等に投入可能としている。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将:旗艦那智)の直率にする意向を示した。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れ、9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:扶桑型戦艦〈山城、扶桑〉)を編制、第二艦隊(第一遊撃部隊)に編入した。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のリンガ進出(10月4日同地着)をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に編入、第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)旗艦の予定となる。ところが9月16日、第一戦隊司令官(宇垣中将)は長門の第二戦隊編入に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発、長門が西村艦隊としてスリガオ海峡に突入する事はなかった。 10月1日、リンガ泊地に停泊する大和、武蔵の乗組員がシンガポールで休養するにあたり、三回にわたり長門が人員輸送艦として使用され、一度に2100名の大和・武蔵乗組員を輸送した。10月中旬、連合艦隊は捷一号作戦を発動、長門は引続き栗田艦隊(司令長官栗田健男中将)第一部隊・第一戦隊(大和、武蔵、長門)に所属して同作戦に参加した。 10月下旬、長門はレイテ沖海戦に参戦する。10月24日のシブヤン海空襲では、第一戦隊より武蔵が沈没した。長門は14:16に米空母フランクリン(USS Franklin, CV-13)とカボット(USS Cabot, CVL-28)からの攻撃機により二発の爆弾を受ける。一発は長門の多くの機銃と第一缶室の換気口を破壊、25分間の軸停止となり、もう一発は無線室と酒保付近を破壊し52名が死亡、106名が負傷した。10月25日のサマール島沖海戦では06:01に護衛空母セント・ロー(USS St. Lo, CVE-63)に砲撃を行うが失敗する。06:54に駆逐艦のヒーアマン (USS Heermann, DD-532)が榛名に魚雷を発射、魚雷は榛名を外れ射線上の大和と長門に向かい、大和が回避運動の末両脇を魚雷に挟まれ、両艦は北方へ約16km回避行動を強いられた。長門は主砲と副砲の砲撃を米護衛空母群に続けて行った。 09:10に栗田健男中将は砲撃の中止と北方への移動を命じた。10:20に栗田中将は再び南進を命じたが、艦隊への攻撃は激しさを増したため12:36に退却を再び命じる。長門は12:43に二発の爆弾を受けるが損害は大きくなかった。10月26日の退却後、連合艦隊はアメリカ軍の激しい空襲を受けることとなる。長門はホーネット(USS Hornet, CV-12)艦載機から4発の爆弾を受け、38名の死者と105名の負傷者を出した。長門は一日で99発の主砲弾と653発の副砲弾を発射した。栗田艦隊は損傷艦の救援に駆逐艦を次々に派遣したため、最終的に戦艦4隻(大和、長門、金剛、榛名)を護る駆逐艦は17駆の2隻(雪風、磯風)のみとなった。長門は雪風に、榛名は磯風にそれぞれ燃料を補給した。
※この「捷一号作戦」の解説は、「長門 (戦艦)」の解説の一部です。
「捷一号作戦」を含む「長門 (戦艦)」の記事については、「長門 (戦艦)」の概要を参照ください。
捷一号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 09:13 UTC 版)
同時期の日本海軍は、海南島所在のヒ76船団と、シンガポール所在のヒ78船団のタンカーを、レイテ島へ突入する連合艦隊の補給に転用する意向であった。連合艦隊は燃料補給部隊について各方面に内示をおこない(GF機密第161535番電)、倉橋に対しては「四 日榮丸、良榮丸及三宅、倉橋、滿珠(何レモ十五日〇八〇〇楡林発馬公回航中)ヲ第一遊撃部隊ニ編入ス」と発令した。中央では、大本営陸軍部(参謀本部)と大本営海軍部(軍令部)が、タンカーおよび燃料の分配をめぐって紛糾していた。 10月17日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(第一遊撃部隊指揮官)はタンカーの確保に追われ、その一環として独断で日栄丸と良栄丸の海南島三亜待機を命じた。第一海上護衛隊作戦指揮下の4隻(千振、倉橋、第19号海防艦、第27号海防艦、敷設艇由利島)は第一遊撃部隊作戦指揮下に編入された。 10月18日、大本営陸海軍部は捷一号作戦を発動した。連合艦隊司令部が手配したタンカーは、ようやく正式に第一遊撃部隊に配属された。ヒ76船団は、事実上空中分解した。タンカー日栄丸は栗田長官から海南島三亜待機を命じられていたが、連合艦隊司令長官はGF電令作第473号(18日11時33分)をもって、3隻(日栄丸、倉橋、海防艦25号)のカラミアン諸島コロン島回航を命じた。同日1830、日栄丸船団は三亜を出航してコロン湾にむかった。ところが第一海上護衛隊司令官は、先にコロン湾所在艦船が米軍機動部隊艦上機の空襲をうけて大被害を受けたことに考慮し、パラワン島ウルガン湾への移動を勧告した。日栄丸船団は連合艦隊の指示を待たずにウルガン湾へむかった。 22日午前7時、栗田長官は第一遊撃部隊補給部隊の編成を発令し、海防艦3隻(倉橋、三宅、満珠)とタンカー2隻(日栄丸、良栄丸)は、軍隊区分第二補給部隊に配置された。同日昼頃、日栄丸船団はウルガン湾に到着した。日栄丸船団は23日までウルガン湾で待機した。24日、日栄丸船団はウルガン湾を出発し、25日コロン湾着。27日付で南西方面艦隊の指揮下に入る。28日コロン湾を出発、29日にマニラ着。翌30日、マニラを出発しシンガポールへむかった。
※この「捷一号作戦」の解説は、「倉橋 (海防艦)」の解説の一部です。
「捷一号作戦」を含む「倉橋 (海防艦)」の記事については、「倉橋 (海防艦)」の概要を参照ください。
捷一号作戦
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太平洋方面戦勢を挽回するために再建途上の第一機動艦隊を投入して行われたあ号作戦におけるマリアナ沖での決戦に敗北した日本軍の絶対国防圏は縮小し、最後の国防要域として残されたのは本土、南洋諸島、台湾、フィリピン島のみとなった。大本営は、8月以降に想定される連合軍の次期進攻に抗するために、7月24日の「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」にてこの残された要域を決戦方面とし地上決戦の方面は北部フィリピン島付近とすることを決定した。そして、連合艦隊に対しては敵が来寇した場合には全兵力を挙げて基地航空機の威力圏内にて迎撃・撃滅し要域を確保するとの決戦方針が示され、更に7月26日にはこの決戦は「捷号作戦」と呼称する事が決定された。また、同作戦の区分は四つに分けられ、その内フィリピン方面は捷一号と区分された。 1944年(昭和19年)2月25日に第二戦隊が解隊された後、連合艦隊付属となり横須賀方面諸学校練習艦として横須賀にあった山城は、8月14日に内海西部に回航された。9月10日に第二戦隊が再編され、西村祥治中将が第二戦隊司令官に着任した事で第二戦隊旗艦となった。同月23日、山城は柱島を出撃し第十七駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)に護衛され日本本土を離れ、29日ブルネイを経由した後10月4日にリンガ泊地へ入泊し第二艦隊に合流した。しかし、山城が第二艦隊に合流して間もない10月10日に沖縄を17隻の空母を中心としたアメリカ第38任務部隊が急襲したことを契機に、台湾沖航空戦が勃発することとなった。この10月12日〜15日にかけて行われた台湾沖航空戦によって空母撃沈11隻、撃破8隻の戦果を挙げたと判断した連合艦隊司令部は、16日1030に高雄の95度430浬の地点に空母7隻、戦艦7隻、巡洋艦10数隻の敵空母部隊を発見したことを受け、敵残存勢力に対して決戦を挑み戦果を拡大するためにリンガ泊地の第一遊撃部隊(第二艦隊)に対して出撃準備を下令した。しかし、第一遊撃部隊がブルネイへと向け出撃準備を進める中で、10月17日0650スルアン島の海軍見張所より突如米艦隊の出現の報告がもたらされ、同見張所は0800に敵が上陸を開始したという電報を最後に連絡を絶った。この緊急報告を受けた連合艦隊司令部は敵がフィリピン島に上陸する可能性があると判断し、同日0835捷一号作戦警戒を発令し、既に出撃準備を開始していた第一遊撃部隊に対してもブルネイへの進出を改めて下令した。そして一日後の18日には捷一号作戦が発令され、第一遊撃部隊は第二部隊を先頭にし第一戦隊、第二戦隊を殿にリンガ泊地を後にし20日にブルネイへと入泊した。第一遊撃部隊がブルネイへ入泊するまでの2日の間に第一遊撃部隊の突入計画は概ね決定されており、連合艦隊司令部と同じく第二艦隊司令部は全艦隊を一方向より進出するよりも南北両方面から分進させる方が有利であると判断していた為、劣速の第二戦隊は別働隊としてスリガオ海峡からレイテ湾へと突入させる予定となっていた。この第一遊撃部隊のレイテ湾突入計画は21日1700より第二艦隊旗艦愛宕にて行われた作戦打ち合わせにおいて初めて知らされ、第二戦隊のスリガオ海峡からの突入に対して意外の感を持った者もいたとされるが、これに対して異論を唱えるものは誰もいなかった。栗田長官が21日に発令した機密1YB命令作戦第四号では第二艦隊の任務は「前略 基地航空部隊、機動部隊本隊ト協同、10月25日黎明時「タクロバン」方面ニ突入、先ツ所在海上兵力ヲ撃滅次テ敵攻略部隊ヲ殲滅ス」とされ、その作戦要領は22日0800にブルネイを出撃した後、24日の日没後サンベルナルジノ海峡を突破しサマール島東方面海面に於いて夜戦によって敵水上部隊を撃滅後、10月25日黎明「タクロバン」方面に突入し敵船団及び上陸軍を覆滅するとされており、第三部隊に関しては主要任務が一、敵船団及上陸軍撃滅 二、敵水上部隊牽制攻撃とされており、作戦要領はブルネイ出撃後分離し25日黎明時主力に策応し「スリガオ」海峡より「タクロバン」方面へ突入し敵船団及び上陸軍を撃滅するとされていた。また、栗田長官は訓示の中で「いやしくも敵主力部隊撃滅の好機あれば、乾坤一擲の決戦を断行する所信である。」と述べており、第一部隊、第二部隊の任務は水上部隊、主力部隊の撃滅を第一とし、輸送船団、陸上部隊の撃滅はその後の二次的な任務とされていた。山城は突入計画に基づき、軍隊区分された第一遊撃部隊第三部隊/第三夜戦部隊(通称西村部隊)の旗艦となった。この西村部隊は第二戦隊(扶桑型戦艦山城、扶桑)、重巡洋艦最上、第四駆逐隊(満潮、朝雲、山雲)、第二十七駆逐隊(時雨)、戦艦2隻・重巡洋艦1隻・駆逐艦4隻の計7隻で編成されていた。統一訓練すら行ったことのない寄せ集め艦隊であり、最初から生還の見込みはなかったとされる。第三部隊が編成された翌日の22日には西村司令官より文章にて作戦要領が指示され、第三部隊は22日1500「ブルネイ」を出撃、25日の日の出前に主力に策応し「スリガオ」海峡より「タクロバン」泊地へと突入し日の出前後に渡り敵船団及び上陸軍を撃滅するとされた。また、同司令官は栗田長官他関係各部にあて、第三艦隊の行動予定を『X-3日(22日)一五三〇ブルネイ湾出撃 X-2日(23日)一一〇〇「パラバック」海峡通過針路五十度ニテ X-1日〇六三〇北緯一〇度三〇分、東緯一二一度二五分ヨリ針路一四〇度爾後「ミンダナオ」海北岸沿ヒニ進撃 〇一〇〇「ピニト」岬南方ニ達シ針路三五〇度ニテ「レイテ」湾ニ達ス』と電報しており、出撃前に各艦艦長を旗艦「山城」に集合させ簡単な作戦打ち合わせを行った後、予定通り1530ブルネイを出撃した。しかし、時雨艦長(西野繁中佐)によるとこの作戦打ち合わせの際には西村司令官、山城艦長(篠田勝清少将)両名は出席していなかったとされ、打ち合わせではレイテ湾の北側の浅瀬に警戒するようにとの話が出され、打ち合わせ後には酒が振舞われたとされる。尚時雨の艦長は21日にブルネイへ入泊した直後西村司令官に呼び出され作戦説明を受けたとしており、その中で別働隊としてスリガオ海峡から突入する予定であるとの事や、今度の戦は敵の輸送部隊を撃滅するのが主目的であるため、攻撃してきたヤツはやっつけてもいいが、深追いする必要はないとの説明を受けたと証言している。この為、21日の時点である程度の作戦説明は既に西村司令官から各艦長に対して行われていた可能性も考えられる。25日に「タクロバン」方面へ突入する事を基点にレイテ湾へと至る四つの航路の内南北からの挟撃が可能で、25日黎明に「タクロバン」より突入可能であったのは、潜水艦に遭遇する危険性は高いが敵航空機の索敵圏外であった第二航路(約2,200km)と敵航空機の索敵圏内であるものの最も距離の短い第四航路(約1,509km)の二つであったため、劣速で航続力の少ない第三部隊はブルネイ泊地→バラバック海峡→スルー海→ミンダナオ海→スリガオ海峡→レイテ湾という第四航路を指定され、25日黎明の「タクロバン」方面突入を目指した。 10月22日午後3時30分、栗田艦隊出撃から七時間半を置いて西村部隊はリンガ泊地から出撃し、23日10時20分にバラバック海峡を通過してスル海に入る。10月24日午前6時50分、最上の水上偵察機がレイテ湾に到達、西村部隊と各方面に戦艦4隻・巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、魚雷艇14隻、輸送船80隻を含む米艦隊の存在を伝えた。 午前9時以降、スールー海ネグロス島南西海域で米軍機動部隊(第3艦隊第4群デビソン隊)艦載機27機(ロケット弾装備F6Fヘルキャット、SBC2ヘルダイバー急降下爆撃機)の攻撃を受ける。アメリカ軍機動部隊の攻撃は栗田艦隊に集中しており、西村部隊は10時以降空襲を受けず、予定通りスリガオ海峡を目指して進撃した。扶桑、最上、時雨が被弾したが、各艦とも損害は軽微であった。ただし山城生存者の江崎寿人主計大尉(山城主計長)によれば、レーダー機器に被弾してレーダーが使用不可能になった他、至近弾により右舷中央から後部にかけてのバルジと艦体の境が大規模に裂けた。結果、右舷に五度傾斜したが、左舷への注水により平衡を回復したという。 12時15分、アメリカ軍第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は指揮下の全艦艇に対し夜戦準備警報を発し、特にジェシー・B・オルデンドルフ少将の艦隊42隻(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻)に西村部隊と志摩艦隊への迎撃準備を命じた。戦艦6隻(ウェストバージニア/16インチ砲8門、メリーランド/16インチ砲8門、テネシー/14インチ砲12門、カリフォルニア/14インチ砲12門、ミシシッピ/14インチ砲12門、ペンシルベニア/14インチ砲12門)のうち、ミシシッピ以外の米戦艦5隻は真珠湾攻撃で沈没もしくは大破しており、近代化改修を受けて再投入された軍艦達であった。しかし、戦艦用砲弾の77.3%は陸上砲撃用のHC(high capacity)弾で占められており、徹甲AP弾(armor piercing)は全体の僅か22.7%に過ぎずHC弾も既に58%が陸上砲撃に使用され消耗していた。少ない対艦用徹甲弾で最大限の効果をあげるべく1万7000〜2万ヤードでの射撃方針が決定された。湾内には28隻の輸送船、3隻の上陸作戦用指揮官、ダグラス・マッカーサー将軍が座乗する軽巡洋艦ナッシュビルが停泊していた。第7艦隊の魚雷艇戦隊(ボーリング中佐指揮)のうち、レッスン少佐率いる39隻がスリガオ海峡の13箇所に展開、一部はミンダナオ島のカミギン島に進出していた。 10月24日午後7時前後、最前線に立つ栗田艦隊や西村部隊は豊田副武連合艦隊司令長官(連合艦隊司令部/慶応義塾大学日吉台地下壕)から発せられた「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ(連合艦隊電令第372号 GF機密241813番電)」を受信した。25日未明、山城以下西村部隊は、ミンダナオ海を抜け、志摩艦隊に先んじてアメリカ軍の第7艦隊が待ち構えるスリガオ海峡に突入した。西村部隊は闇雲にスリガオ海峡へ突入したと誤解されがちだが、西村司令官は逐一自隊の状況を栗田長官に報告していた。一方で、栗田艦隊の戦艦武蔵沈没という被害や反転・再反転の情報を受信していたかは定かではない。21時13分、西村司令官は「二十五日〇四〇〇『ダラグ』沖ニ突入予定」(第二戦隊機密第242013番電)と発信(栗田艦隊受信20時20分)。対する栗田長官は、21時45分にレイテ突入予定時刻を25日11時と伝え「(西村部隊は)予定通『レイテ』泊地ニ突入後 二十五日〇九〇〇『スルアン』島ノ北東一〇浬付近ニ於テ主力ニ合同」(第一遊撃部隊第242145番電)と発信した(西村部隊受信22時40分)。
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