1940年の改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 18:20 UTC 版)
「摂津 (標的艦)」の記事における「1940年の改造」の解説
その後1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)にかけて第二次改造工事を実施した。重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように、防御をさらに強化した。軍縮条約によって取り外していた舷側装甲を復活する。また航空攻撃に対応して、艦上部構造物や水平面の防御を強化した。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの14センチ演習砲による砲撃などに耐えられるようにした。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを戦艦金剛の陸揚罐と換装する。第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう、第一煙突の高さが短縮された。 砲撃訓練時、乗組員は摂津より退艦する(無人状態)。爆撃訓練時、乗組員は摂津防禦区画に退避して操艦する。この訓練は、爆撃回避行動の訓練も兼ねた。これらの改装により航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、戦果向上の一助となる。一例として、摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の「日向」「伊勢」を無事生還させた松田千秋が特に有名である。 なお摂津及び「矢風」を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。
※この「1940年の改造」の解説は、「摂津 (標的艦)」の解説の一部です。
「1940年の改造」を含む「摂津 (標的艦)」の記事については、「摂津 (標的艦)」の概要を参照ください。
- 1940年の改造のページへのリンク