第四航空戦隊司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 10:21 UTC 版)
1941年9月、第四航空戦隊司令官。隼鷹分隊長阿部善朗は「角田は典型的な武人であり、見敵必戦の猛将であると言われたが、砲術出身で航空運用について無知な点が多かった。我々は彼を鉄砲屋と称していた」と語っている。1941年12月、太平洋戦争開戦。角田は「開戦と決し連合艦隊長官の訓示を頂きて」と題する漢詩「毀誉褒貶不足論 功名栄達非吾事 生無死無任務有 粉骨砕身期完遂」を残している。 開戦時、第四航空戦隊はフィリピン南部攻略を行う第三艦隊南比支援隊に所属。角田は航空母艦「龍驤」でミンダナオ島ダバオ飛行場の空襲を指揮した。1942年(昭和17年)2月14日、南部スマトラ攻略のL作戦が発動されると、第四航空戦隊は第一南遣艦隊に編入される。南遣艦隊はカレル・ドールマンオランダ海軍少将率いる連合軍の混成艦隊と遭遇し、角田の命令で「龍驤」から攻撃隊が発進し、指揮官の小沢治三郎中将もそれを追認し、この爆撃で連合軍艦隊は逃走したが、小沢も主力部隊を撤退させてしまった。その後も角田は四次攻撃まで敢行し「大巡1隻大破、軽巡2隻大破」を報じた。その後の会議で角田は小沢治三郎中将に対し、主隊をもって敵艦隊を追撃しなかったことを詰問をした。 1942年3月スラバヤ沖海戦の追撃作戦に従事。ベンガル湾掃討作戦に従事。この作戦では空母の高角砲で敵貨物船や基地を砲撃する戦法を行った。1942年(昭和17年)6月、アリューシャン作戦に参加。空母「龍驤」の艦攻隊や空母「隼鷹」の艦爆隊でダッチハーバーを爆撃して陽動を行うほか、攻撃力を補うために巡洋艦搭載の九五式水偵4機を爆装で出撃させて2機を喪失するなどの強引な用兵で被害を出した。
※この「第四航空戦隊司令官」の解説は、「角田覚治」の解説の一部です。
「第四航空戦隊司令官」を含む「角田覚治」の記事については、「角田覚治」の概要を参照ください。
- 第四航空戦隊司令官のページへのリンク