太平洋戦争前半の行動
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「旗風 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争前半の行動」の解説
太平洋戦争開戦時の第五水雷戦隊司令官は、引き続き原顕三郎少将(五水戦旗艦名取)。緒戦期の第五水雷戦隊は比島攻略部隊に所属し、開戦劈頭のフィリピンの戦いのうちのアパリ(英語版)攻略戦、リンガエン湾上陸、次いでマレー作戦のシンゴラ上陸作戦支援に参加した。馬公および高雄で整備の後、蘭印作戦に参加。 詳細は「バタビア沖海戦」を参照 1942年(昭和17年)3月1日、ジャワ島バンタム湾上陸作戦の最中にバタビア沖海戦が発生。当時、第5駆逐隊(朝風、春風、旗風、松風)のうち「松風」は第四航空戦隊(司令官角田覚治少将。空母龍驤)護衛のため不在。3隻(朝風、春風、旗風)のみ第七戦隊第2小隊(重巡《三隈、最上》、駆逐艦《敷波》)、第五水雷戦隊・第三水雷戦隊各艦(名取、第11駆逐隊《 初雪、白雪、吹雪》、第12駆逐隊《叢雲、白雲》)等と共に、連合軍の巡洋艦2隻(パース、ヒューストン)を協同撃沈した。旗風は直撃弾を受けるも、不発のため損害は軽微。だが魚雷の同士討ちにより陸軍輸送船団旗艦「神洲丸《龍城丸》」(第16軍司令官今村均陸軍中将座乗)以下輸送船4隻と掃海艇1隻が大破もしくは沈没した。 1942年(昭和17年)3月10日、第五水雷戦隊は解隊(五水戦司令官原顕三郎少将は第十六戦隊《名取、長良、鬼怒》司令官に補職)。これに伴い第5駆逐隊は第一南遣艦隊に転属。3月12日、旗風はシンガポールに到着した。4月10日附の戦時編制改定にともなう南西方面艦隊新設後も、第5駆逐隊は第一南遣艦隊附属であった。5月5日、旗風は第5駆逐隊から除籍。横須賀鎮守府警備駆逐艦となる。5月6日、「旗風」は給糧艦伊良湖を護衛してシンガポールを出発。5月16日、旗風は横須賀に到着した。その後、横須賀を母港として船団護衛任務に従事する。 9月中旬、旗風は連合艦隊の作戦指揮下に入る。連合艦隊司令長官山本五十六大将および第四艦隊司令長官井上成美中将は、駆逐艦2隻(旗風《横須賀鎮守府》、峯風《佐世保鎮守府》)に大鷹型航空母艦2番艦雲鷹の護衛とトラック泊地進出を命じた。9月25日、旗風は雲鷹を護衛して呉を出撃、トラック島方面へと進出する。10月1日、トラック泊地に到着。本艦は翌日より第二海上護衛隊(軽巡夕張他が所属)の指揮下に入る。第二海上護衛隊各艦(夕張、旗風、峯風、夕月、追風、朝凪、夕凪、長運丸、浮島丸)等は各方面に分散し、トラック~ラバウル~パラオ方面の船団護衛任務に従事した。 11月7日、駆逐艦2隻(旗風《横鎮》、峯風《佐鎮》)は連合艦隊司令長官の作戦指揮を解かれ、所属鎮守府に復帰することになった(大海指第156号)。11月10日、旗風駆逐艦長を入戸野焉生少佐から小泉四郎少佐(10月25日まで駆逐艦早苗艦長)とする人事が発令される。入戸野少佐は駆逐艦初霜艦長や駆逐艦秋雲艦長を歴任し、秋雲沈没時に戦死した。11月24日、旗風は横須賀に帰投、第二海上護衛隊での任務を終えた。引き続き、横須賀を拠点として護衛任務に従事する。
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