太平洋戦争前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:55 UTC 版)
「長鯨 (潜水母艦)」の記事における「太平洋戦争前期」の解説
1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、長鯨は引き続き第三艦隊麾下の第六潜水戦隊(司令官河野千萬少将)旗艦であった。第六潜水戦隊はカムラン湾に進出する。第六潜水戦隊の一部兵力(長鯨、伊123、伊124)は比島部隊潜水部隊として、フィリピン攻略(比島作戦)や蘭印攻略(蘭印作戦)を支援した。当時の長鯨は艦首部分に白波を描き、艦側面には魚雷発射管を描くなど、迷彩を施していた。長鯨はミンダナオ島のダバオ(比島作戦時)やスラウェシ島スターリング湾(蘭印作戦時)等に停泊し、潜水艦作戦を支援した。 1942年(昭和17年)3月10日、第四潜水戦隊(旗艦鬼怒)の解隊にともない、鬼怒は第十六戦隊へ、第18潜水隊は呉鎮部隊へ、第19潜水隊は第五潜水戦隊へ、第21潜水隊は第六潜水戦隊に編入される。この時点での第六潜水戦隊は、母艦長鯨、第13潜水隊(伊121、伊122、伊123)、第21潜水隊(呂33、呂34)であった。4月1日、長鯨は佐世保に帰投した。その後、呉に移動した。4月10日、日本海軍は第二段作戦に対応して戦時編制の改訂を実施する。これにともない第六潜水戦隊は解隊された。長鯨は予備艦となる。呉鎮守府(司令長官豊田副武大将)部隊に編入され、練習艦兼警備艦に指定される。以後、海軍潜水学校練習艦として訓練に従事した。 8月31日、日本海軍は戦時編制の改訂により伊34・伊35・さんとす丸で呉潜水戦隊を編成し、呉鎮守府部隊に編入した。同部隊は新造潜水艦の訓練と練成を主任務としていた。12月15日、呂号第百潜水艦は呉潜水戦隊から第八艦隊麾下の第七潜水戦隊に編入される。呂百型潜水艦の配備にともない、酸素魚雷の調整設備をもった長鯨の第七潜水戦隊編入がきまった。
※この「太平洋戦争前期」の解説は、「長鯨 (潜水母艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争前期」を含む「長鯨 (潜水母艦)」の記事については、「長鯨 (潜水母艦)」の概要を参照ください。
太平洋戦争前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:58 UTC 版)
「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争前期」の解説
詳細は「マレー作戦」を参照 太平洋戦争開戦時、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:軽巡〈川内〉、第11駆逐隊〈初雪、白雪、吹雪〉、第12駆逐隊〈叢雲、白雲、東雲〉、第19駆逐隊〈浦波、磯波、綾波、敷波〉、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、狭霧〉)は馬来部隊に所属し、他部隊からの編入部隊と共に南方作戦におけるマレー作戦に従事した(馬来部隊の編成は南遣艦隊を参照)。12月24日、ボルネオ島サラワク州クチンで輸送船団を護衛していた姉妹艦「狭霧」が、オランダ潜水艦「K XVI」に撃沈された。第20駆逐隊は吹雪型3隻(天霧、朝霧、夕霧)となった。 詳細は「エンドウ沖海戦」を参照 1942年(昭和17年)1月24日、第三水雷戦隊司令官・橋本信太郎少将指揮下の輸送部隊はマレー半島シンゴラを出撃、エンダウにむかった。輸送船2隻を、護衛部隊(三水戦旗艦「川内」、第11駆逐隊〈白雪、初雪、吹雪〉、第20駆逐隊〈朝霧、夕霧、天霧〉、第1掃海隊、特設掃海艇2隻)で護衛する。26日にエンドウに到着したところ、イギリス軍機による空襲に晒されて輸送船に若干の被害があった。1月27日未明、連合軍駆逐艦「サネット」と「ヴァンパイア」がエンダウに到着、泊地に停泊中の日本軍輸送船団を襲撃した。第三水雷戦隊の反撃により「サネット」は沈没、「ヴァンパイア」は損傷して戦場から避退した。 同年3月10日、日本海軍は第12駆逐隊を解隊し、12駆所属だった駆逐艦「白雲」を第20駆逐隊に編入した。第20駆逐隊は吹雪型4隻(夕霧、朝霧、天霧、白雲)となり、引き続き馬来部隊として、麾下各部隊・各艦(鳥海、由良、香椎、占守、龍驤、熊野、鈴谷、三隈、最上など)と共にシンガポール方面作戦、北部スマトラ攻略作戦(T作戦)、アンダマン諸島攻略作戦(D作戦)とビルマ攻略作戦(U作戦)、ベンガル湾機動作戦などに従事した。 詳細は「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」および「セイロン沖海戦」を参照 4月初旬、南雲機動部隊のセイロン島攻撃に策応し、小沢治三郎中将指揮下の馬来部隊機動部隊はベンガル湾で通商破壊作戦を実施した。第20駆逐隊4隻は中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、南方隊(三隈、最上、天霧)に区分されて行動した。作戦実施直前の4月3日0645(日本時間)、南アンダマン島のポートブレアに停泊していた機動部隊警戒部隊(第三水雷戦隊)に対し連合軍爆撃機が空襲を敢行、「夕霧」は至近弾で若干の損傷を受けた(戦闘航海に影響なし)。翌日以降、馬来部隊機動部隊はベンガル湾に進出し、4月6日の作戦で大きな戦果を挙げた。中央隊の「由良」「龍驤」「夕霧」は艦砲射撃により商船3隻を撃沈している。「夕霧」は、「由良」による商船撃沈を支援した。作戦後、馬来機動部隊は燃料補給を行いつつベンガル湾を離れ、4月11日シンガポールに帰投した。同地到着前日の10日、連合艦隊は第二段作戦第一期兵力部署を発動し、第三水雷戦隊は主隊に編入された。 南方作戦が一段落すると、馬来部隊に編入されていた各部隊・各艦(第三水雷戦隊を含む)は内地に帰投した。「夕霧」は4月22日呉到着、呉工廠で修理をおこない、5月9日に完成した。 5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦において、第三水雷戦隊は連合艦隊司令長官・山本五十六大将と第一艦隊司令長官・高須四郎中将の戦艦部隊を護衛した。5月29日朝、主力部隊は桂島泊地を出撃した。第20駆逐隊は高須中将指揮下の警戒部隊に区分されており、6月4日5時に山本長官直率の主力部隊主隊と分離した。ミッドウェー海戦に敗北したあと内地にもどった三水戦は、6月下旬より奄美大島や沖縄諸島方面で対潜掃蕩に従事した。 7月下旬、第三水雷戦隊はインド洋方面通商破壊を主目的とするB作戦に従事するため、マレー半島西岸のメルギーに進出した。B作戦参加部隊の兵力部署において、三水戦司令官指揮下の機動部隊・北方隊(三水戦〈川内、第19駆逐隊、第20駆逐隊〉)に所属していた。 「スタブ作戦」も参照 8月7日、ガダルカナル島の戦い生起にともないB作戦は中止される。8月13日、第三水雷戦隊のうち「川内」と第20駆逐隊は南東方面部隊に編入された。「川内」と第20駆逐隊はマカッサルとダバオを経由して、8月23日までにトラック泊地へ進出した。既に川口支隊のガ島進出を護衛するよう命じられていた。
※この「太平洋戦争前期」の解説は、「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争前期」を含む「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
太平洋戦争前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
太平洋戦争が1941年12月8日に始まったが、その前の12月10日に16年後期総務は次の掲示を出した。「檄!今や帝国の存亡を賭する一大決戦の秋は来れり。吾等の万世不易大日本帝国に生を享く光栄之に過ぐるものなし。顧るに英米諸国、東亜を目して植民地と做し、黄色民族を搾取して奴隷化せんとすること久し。帝国今や同胞の蝕まるるを黙認する能はず。敢然矛を取りて之に報ゆ。力なき正義は無能なり。正義なき力は暴逆なり。而して我が力は正義の力なり。吾等深く恩を肇国(ちょうこく)の国是に到し、帝国の使命の広く世界史的且つ人類的なるを稽(かんが)へ、刻苦勉励、不撓(ふとう)不屈、愈々(いよいよ)結束を固むると共に、帝国大学寄宿舎学生たるの本文を全くせんことを期す。総務。」 この頃、大学当局の要請で、舎生が京大生を代表して戦意高揚のための行事に出席することがしばしばあった。1941年12月16日、京都御所で開かれた米英撃滅国民大会には舎生多数が「本学代表」として出席した。また、1942年4月19日の「学生銃剣道大会」にも舎生数名が「本学代表」として参加した。 1942年4月18日。その日は土曜日で天気も良かったので、舎生の多くはハイキングに出かけていた。午後一時、警戒警報が発令され、午後二時半には空襲警報に更新された。寄宿舎に残っていた舎生は廊下と庭の消火栓にホースをつないで焼夷弾の落下に備えたが、内心では「今般もさして近くはあるまい」と誤報を疑っていた。しかしこのときアメリカ軍機による史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)が進行中であった。真相を知った総務委員は驚いたが、「一機二機では問題にならない」「敵も大分無理をするなと感心する」などど強がった。空襲警報は中々解除されず、舎生は半数ずつ交代で食事をとり、日没とともに灯火管制を実施した。午後七時半、空襲警報は解除され、舎生は胸をなでおろした。 5月1日、16年後期総務が退任し、17年前期総務が就任した。前期総務は寄宿舎を「戦時下学生団体」と定義し、総務就任の決意表明では「全体の動向、即ち国家の要請に対しては何処迄も応じなくてはならぬ」「吾々は誠心誠意を以って舎の為に、否、国家の為に盡(つく)す覚悟である」「吾々は單(たん)なる個人ではない。国家の個人であり臣民である」と述べ、個を捨てて全体のために奉仕することを舎生に要求した。彼らは新入舎生の選考や舎友会(OB会)の発会、中寮の再建など困難な仕事に精力的に取り組んだものの、その反面、大学当局の言いなりになったり、他の舎生に監視者の如く高圧的に接する側面もあった。また、一部の舎生を「駆除」すべき「癌的存在たる不良分子」呼ばわりし、舎生規約の条文を利用して「相応に処理」できないか検討していたようだ。だが何らかの事情により就任二ヶ月後に全員辞任し、後任の中期総務(岩猿敏生他2名)は前期総務を批判した。 「(前略)総務の権限云々が大きな問題になってゐる。実際、何かを上に立ってやらんと思へば、何等かの力なくしては何もなし得ない事は当然である。しかし此の力は唯舎生に対する重圧のみであってはならない。本寄宿舎は唯一の帝大寄宿舎なりと言ふ真の自覚に全寮生が到達する時、そして寮に対して責任ある行動をとる時、寮の進展力として総務の権限、力が生ずるのである。総務の権限は唯条文で決めただけでは舎生に対する重圧のみなるおそれあり。総務の仕事が本当によく履行されて行く為には全舎生の協力が必要であり、此の協力ある時、総務の権限も真に生かされてくる。総務と舎生との間が監視者と被監視者と言ふが如き対立的なものであってはならない。総務の権限は舎生が盛り立ててくれなければならない。大学生の寄宿舎の運営は政府と国民との間の如き関係では直に考へられないであらう(後略)」 17年中期総務以降、総務は舎生の意志を尊重し、抑制的に権力を行使する傾向が強まった。 「(前略)寮そのもののあり方を上に立つ総務たるものがよくよく考え反省を致し、寮生の絶えざる全体への努力、愛寮心によって、益々寄宿舎を発展さすことに務めなければならない。然し、大学寄宿舎の総務は高等学校の総務と同じではない。相手は大学生である。決して自己の理想、意欲通りに皆を引っ張っていくといふことは出来ない。総務は緩衝地帯であると云ってもよい。要は盛り上がる寮生の力を如何に指導統制して行くかに重要な点が存すると思う。(後略)」(17年後期総務) 「人を統率する事に関し、統率者が一個の意志で指導する事は難儀の様で、いとも易しい。下より盛り上る力を巧みに誘導し、且つ利用して行く事は易しい様で難なる事と思ふ。まして総務は三人、此の三人間の意気投合が先ず第一に必要である。而して一般舎生との意思疎通が大切である。之にももっと班委員を動かして、寮に対する舎生の熱をたかめて欲しいのである。上よりする力は強いようで弱く、反対に下よりする力は強大なるものと思ふ(後略)」(18年後期総務)
※この「太平洋戦争前期」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「太平洋戦争前期」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。
太平洋戦争前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:00 UTC 版)
「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争前期」の解説
詳細は「マレー作戦」を参照 太平洋戦争開戦時、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:軽巡〈川内〉、第11駆逐隊〈初雪、白雪、吹雪〉、第12駆逐隊〈叢雲、白雲、東雲〉、第19駆逐隊〈浦波、磯波、綾波、敷波〉、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、狭霧〉)は小沢治三郎中将が指揮する馬来部隊に所属し、他部隊からの編入部隊(高雄型重巡鳥海、最上型重巡洋艦、軽巡由良や鬼怒)と共に南方作戦におけるマレー作戦に従事した。12月24日、ボルネオ島方面作戦に従事していた姉妹艦狭霧がオランダ海軍潜水艦K XVIに撃沈された。第20駆逐隊は霧級3隻(天霧、朝霧、夕霧)となった。 詳細は「エンドウ沖海戦」を参照 1942年(昭和17年)1月24日、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将指揮下の輸送部隊はマレー半島シンゴラを出撃、エンダウにむかった。輸送船2隻を、護衛部隊(三水戦旗艦「川内」、第11駆逐隊〈白雪、初雪、吹雪〉、第20駆逐隊〈朝霧、夕霧、天霧〉、第1掃海隊、特設掃海艇2隻)で護衛する。26日にエンドウに到着したところ、イギリス軍機による空襲により輸送船に若干の被害があった。1月27日未明、連合軍駆逐艦サネット (HMS Thanet,H29) およびヴァンパイア (HMAS Vampire,I68) がエンダウに到着、泊地に停泊中の日本軍輸送船団を襲撃した。第三水雷戦隊の反撃により「サネット」は沈没、「ヴァンパイア」は損傷して戦場から避退した。 詳細は「ジャワ沖海戦」および「挺進連隊」を参照 2月上旬、第三十八師団(師団長佐野忠義陸軍中将)がスマトラ島パレンバンを攻略することになり、馬來部隊は陸軍輸送船団の護衛をおこなった。同時期、マレー半島では日本陸軍がシンガポールに迫り、連合軍艦船は同地から南方への脱出を開始する。馬来部隊各艦は、輸送船団護衛と並行して連合軍艦船の捕捉につとめた(シンガポールの戦い)。2月13日、吹雪と朝霧は特設敷設艦1隻と商船1隻の撃沈を報じた。2月14日午前8時、護衛隊指揮官(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将)は護衛部隊の部署を変更し「一 川内及第十一駆逐隊第一小隊ハ輸送船隊ニ合同ス/二、由良、朝霧、吹雪ハ由良艦長指揮ノ下ニ本海面ヲ機宜行動 敵艦船ノ攻撃ニ任ジ輸送船隊南下スルニ従ヒ之ガ北方ヲ警戒スル如ク行動セヨ/三 吹雪ハ一八〇〇輸送船隊ニ合同セヨ(輸送船隊ノ「バンカ」水道進入ヲ掩護セシムル予定)」と命じた。由良艦長三好輝彦大佐の指揮下3隻(由良、朝霧、吹雪)はバンカ島とスマトラ島間のムントク泊地で、哨戒と掃蕩任務に従事する。同日夜、3隻は日本陸軍小規模船団を攻撃していたイギリス軍特設掃海艇(707トン)を発見し、共同で撃沈した。翌15日、由良は朝霧を率いてムントク泊地を哨戒し、イギリス商船1隻と特設掃海艇(953トン)を撃沈した。 同15日、日本軍輸送船団を攻撃するためカレル・ドールマン提督指揮下のABDA艦隊(重巡1隻、軽巡4隻、駆逐艦8隻)がガスパル海峡を北上してきた。だがABDA艦隊は空母龍驤の攻撃隊と基地航空部隊の空襲により撃退されジャワ島バタビヤにむけ反転したため、水上艦同士の海戦には至らなかった。その後、由良と朝霧は他艦と共にムントク泊地周辺の警戒任務に従事した。16日夕刻、由良と朝霧はイギリス軍砲艇を捕獲した。17日、南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)はマレー作戦終了にともない兵力区分の変更を発令、馬來部隊の一部部隊は21日付で蘭印部隊(指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官)に転じた。 同年3月10日、日本海軍は第12駆逐隊を解隊し、同駆逐隊所属だった駆逐艦白雲を第20駆逐隊に編入した。第20駆逐隊は吹雪型4隻(夕霧、朝霧、天霧、白雲)となり、引き続き馬来部隊(指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官)として、麾下各部隊・各艦と共に北部スマトラ攻略作戦(T作戦)、アンダマン諸島攻略作戦(D作戦)とビルマ攻略作戦(U作戦)、ベンガル湾機動作戦などに従事した。 詳細は「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」および「セイロン沖海戦」を参照 4月初旬、南雲機動部隊のセイロン島攻撃に策応し、小沢中将指揮下の馬来部隊機動部隊はベンガル湾で通商破壊作戦を実施した。第20駆逐隊4隻は中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、南方隊(三隈、最上、天霧)に区分されて行動した。作戦実施直前の4月3日0645(日本時間)、南アンダマン島のポートブレアに停泊していた機動部隊警戒部隊(第三水雷戦隊)に対し連合軍爆撃機が空襲を敢行、夕霧は至近弾で若干の損傷を受けた。翌日以降、馬来部隊機動部隊はベンガル湾に進出し、4月6日の作戦で大きな戦果を挙げた。中央隊の由良・龍驤・夕霧は艦砲射撃により商船3隻を撃沈している。朝霧と夕霧は、由良による商船撃沈を支援した。作戦後、機動部隊各艦は燃料補給を行いつつベンガル湾を離れ、4月11日シンガポールに帰投した。同地到着前日の10日、連合艦隊は第二段作戦第一期兵力部署を発動し、第三水雷戦隊は主隊に編入された。朝霧や夕霧と共に行動していた由良は、第四水雷戦隊旗艦に転じた。
※この「太平洋戦争前期」の解説は、「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争前期」を含む「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争前期のページへのリンク