第一南遣艦隊
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第一南遣艦隊は、1942年(昭和17年)1月3日の第三南遣艦隊新設に伴い、先述の南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)を改名したものである(小沢司令長官、澤田参謀長など留任)。南遣艦隊の任務を引き継ぎ、馬来部隊としてシンガポールの戦い・蘭印作戦・ニコバル諸島攻略・ビルマ作戦を支援した。南方作戦終了後、臨時編入されていた重巡鳥海などはミッドウェー作戦にそなえて日本本土へ帰還した。第一南遣艦隊旗艦は香椎に戻った。第一南遣艦隊はシンガポールに司令部を置き、マレー半島・インドシナ・ビルマ・ニコバル諸島・アンダマン諸島に根拠地隊を置いた。各地での局地戦(空襲、潜水艦戦)で小規模な損害を重ねたが、主戦場とならなかったために、大規模な損害は受けなかった。 改称当時、引き続き連合艦隊の指揮でマレー作戦・蘭印作戦に従事した。1942年(昭和17年)4月10日、3個南遣艦隊が連合した南西方面艦隊が発足すると、南西方面艦隊の指揮下に置かれた。1943年(昭和18年)4月15日に南西方面艦隊司令部と第二南遣艦隊司令部が分離し、第一南遣艦隊は兵力部署において西方部隊となった。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)1月8日、南西方面艦隊より第十三航空艦隊がのぞかれて第一南遣艦隊に編入され、第一南遣艦隊司令長官田結穣中将が第13航空艦隊司令長官を兼任した。同日附で第二航空艦隊(司令長官福留繁中将、参謀長菊池朝三少将)が解隊され、幕僚は水上機でマニラを脱出、カムラン湾を経由してシンガポールに移動した。福留は、第一南遣艦隊司令長官達が平時の服装であることに「日本の戦争地域にまだこんな平和な地が残っているのか」と感嘆したという。1月13日、福留中将は第一南遣艦隊司令長官兼第十三航空艦隊司令長官に任命された。 同時期、ルソン島マニラに司令部を置いていた南西方面艦隊/第三南遣艦隊(司令長官大川内伝七中将、参謀長有馬馨少将)は、フィリピン地上戦に巻き込まれて機能を失った。2月5日、日本海軍は第五艦隊(司令長官志摩清英中将)を解隊し、第十方面艦隊(司令長官福留繁中将、参謀長朝倉豊次少将)を新編する。第一南遣艦隊と第二南遣艦隊は南西方面艦隊からのぞかれて他部隊(第十三航空艦隊・第五戦隊など)と共に第十方面艦隊に編入されて「西部方面部隊」となり、終戦まで駐留を継続した。戦艦と水雷戦隊は、2月中旬に実施された北号作戦により内地に撤収したため、第十方面艦隊は重巡4隻(羽黒、足柄、妙高、高雄)と少数の駆逐艦、基地航空隊で連合国軍の反攻に備えた。制海権も失われており、5月中旬にはニコバル諸島方面輸送作戦に従事していた重巡羽黒が撃沈され、駆逐艦神風も小破した(ペナン沖海戦)。重巡足柄も潜水艦の雷撃で失われた。ビルマ方面(第13根拠地隊、司令官田中頼三少将)の戦局も悪化する一方であった。 なお、第十方面艦隊司令部(司令長官・参謀長)はひきつづき第一南遣艦隊司令部および第十三航空艦隊司令部を兼任した。9月2日、シンガポールにて南方陸海軍の降伏式が行われた。
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