第二南遣艦隊
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1942年(昭和17年)3月10日、蘭印作戦の目途がついたことで日本海軍は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)や麾下の第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将)等を解隊・再編・改称し、第二南遣艦隊を新編した(司令長官高橋伊望中将)。4月10日、日本海軍は第二段作戦方針に基づき戦時編制の改定を実施する。この中で、南西方面全体を統轄する南西方面艦隊を新編した。南西方面艦隊は、三個艦隊(第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第三南遣艦隊)を麾下に置き、また軍政も担当した。第二南遣艦隊司令長官高橋伊望中将が南西方面艦隊司令長官を兼務した。 南西方面艦隊発足後も、第二南遣艦隊は東印部隊として引き続きインドネシア方面の作戦に従事した。重巡洋艦足柄と第十六戦隊(名取、鬼怒、長良、五十鈴)が発足当初の主力艦艇だったが、はやくも4月に長良が第十戦隊旗艦に転用され、9月下旬には五十鈴も第二水雷戦隊旗艦に引き抜かれてしまった。最初の1年間は、南西方面艦隊司令部の直卒部隊として司令部を兼任していた。9月15日、第二南遣艦隊司令長官(南西方面艦隊司令長官兼任)は高橋中将から高須四郎中将に交代した。 1943年(昭和18年)1月中旬にはアンボン島港外で軽巡名取が潜水艦の雷撃と空襲で大破、第二南遣艦隊の大型艦船は足柄と軽巡2隻のみとなる。4月15日、第二南遣艦隊司令長官に岩村清一中将が任命され、南西方面艦隊司令部と分離した(高須中将は南西方面艦隊長官専任)。足柄と第十六戦隊も南西方面艦隊直率部隊となり、第二南遣艦隊は軍政関係を主に担任することになった。第二南遣艦隊は軍隊区分において東印部隊となった。この頃から連合軍の空襲が激しくなった。 第二南遣艦隊はボルネオ島・セレベス島・スンダ列島・西ニューギニアを管轄したが、広大すぎることから11月30日に第四南遣艦隊を新編し(南西方面艦隊麾下)、東部の管轄区域を移譲した。大規模な戦闘は経験せず、潜水艦攻撃と機動部隊の空襲によって消耗した。 1945年(昭和20年)2月5日の第十方面艦隊新編にともない(上述)、第一南遣艦隊と第二南遣艦隊は南西方面艦隊からのぞかれて第十方面艦隊へ編入された。また第四南遣艦隊は同年3月10日に解散したが、麾下部隊は第二南遣艦隊に復帰することなく、第十方面艦隊直卒となった。
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