第十六戦隊 (第二、第三次)
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「青葉 (重巡洋艦)」の記事における「第十六戦隊 (第二、第三次)」の解説
1943年(昭和18年)11月25日、第一南遣艦隊・第十六戦隊に編入された。12月15日、青葉は呉を出撃、マニラを経て12月24日にシンガポールへ進出した。速力が落ちていた事もあって同方面で輸送任務に従事した。 1944年(昭和19年)2月27日、シンガポールを出撃する。3月上旬、第十六戦隊旗艦青葉(同戦隊司令官左近允尚正少将)は、指揮下の重巡洋艦利根(艦長黛治夫大佐)、重巡筑摩(艦長則満宰次大佐)と共にインド洋で通商破壊作戦に従事した。この時、利根が撃沈したイギリスの商船ビハール号の捕虜処刑問題を巡ってビハール号事件が発生した。3月15日、ジャカルタに入港してサ一号作戦部隊は解散した。4月23日、触雷して沈没した駆逐艦天霧の救助作業に従事した。24日、タラカンに入港して天霧乗組員を揚陸した。 詳細は「渾作戦」を参照 6月上旬、青葉は十六戦隊旗艦として渾作戦に参加する。軽巡鬼怒や第27駆逐隊(時雨、五月雨)等と行動を共にした。7月25日、リンガ泊地に進出。以後、訓練に従事する。10月中旬以降の捷号作戦(レイテ沖海戦)では当初、日本軍第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属していたが、第二遊撃部隊に編成替えとなり、第十六戦隊旗艦として後方での兵員輸送を命じられた。10月21日、リンガ泊地を出港する。10月23日、青葉はルソン島西方でアメリカの潜水艦ブリーム (USS Bream, SS-243) の雷撃で大破した。右舷前部機械室への魚雷命中により右に13度傾斜した。この状態で鬼怒に曳航され、マニラ湾に入港する。その翌日にもアメリカ軍の空母艦載機による攻撃を受けた。同地での応急修理により5ノットの航行が可能となり、レイテ沖海戦で損傷していた重巡熊野と共に本土回航を命じられた。11月6日、重巡2隻(青葉、熊野)及びマタ31船団はサンタクルーズを出港するが同日午前中に熊野がアメリカ潜水艦の雷撃で大破され、青葉は熊野に対して『われ曳航能力なし』と伝達し、熊野を残置して内地へ向かった。11月25日、熊野はサンタクルーズ湾でアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された。12月12日、青葉はかろうじて呉軍港に帰投した。
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