クリスマス島攻略作戦
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「那珂 (軽巡洋艦)」の記事における「クリスマス島攻略作戦」の解説
詳細は「日本軍のクリスマス島占領」を参照 3月末から4月初めにかけて那珂はクリスマス島攻略作戦に参加した。 3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を指揮官とするクリスマス島攻略部隊が正式に編成され、3月31日の攻略を目指した。主隊/第十六戦隊(名取、長良)、警戒隊(司令官西村祥治少将:第四水雷戦隊那珂、第9駆逐隊第1小隊《峯雲、夏雲》、哨戒艇2隻、球磨川丸、君島丸)、第24特別根拠地隊分遣隊、補給部隊(あけぼの丸)、さらに第16駆逐隊天津風という兵力部署であった。 攻略作戦中の3月31日早朝、軽巡3隻(名取、長良、那珂)は水上偵察機を投入して偵察・哨戒・対地支援攻撃を行い、また那珂は艦砲射撃をおこなった。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する。20時30分、天津風が到着して対潜哨戒に加わった。 日本の船団はアメリカ潜水艦サーモンに発見され、その情報は潜水艦シーウルフへと伝えられた。シーウルフは3月31日に那珂に対して4本、4月1日に名取に対して3本の魚雷を発射したが、これらは命中しなかった。シーウルフは4月1日には那珂に対して2度目の雷撃も行い、残っていた魚雷2本を発射して1本を命中させた。4月1日18時4分、那珂は第九駆逐隊第一小隊とともにクリスマス島北方海面を哨戒中に雷撃を受け、右舷中央部缶室に魚雷が命中。一時航行不能となり2隻(天津風、哨戒艇34号)が護衛した。那珂は名取に曳航され、第九駆逐隊第一小隊と天津風の護衛でバンタム湾へ向かった。途中で那珂は自力航行可能となり、4月3日昼過ぎにバンタム湾に到着した。 クリスマス島攻略部隊は4月3日の名取バンタム湾到着をもって解散(那珂、夏雲、峯雲は4月2日附で除かれる)、四水戦(那珂、夏雲、峯雲)は4月6日にバンタム湾を経ちシンガポールへと移動した。4月10日着後、西村司令官は那珂を工作艦朝日に托し、第四水雷戦隊旗艦を駆逐艦夏雲に変更して内地へ向かった。また艦隊の再編により第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮、荒潮、《大潮、満潮》5月15日除籍)が第四水雷戦隊に編入された。那珂修理中の5月9日、軽巡洋艦由良が第四水雷戦隊に編入された。5月20日、四水戦旗艦は夏雲から由良に変更される。一方、那珂は6月3日にシンガポールを出発。台湾馬公市を経由して12日に横須賀帰着。15日附で第四水雷戦隊から除かれた。6月21日、舞鶴市に到着。舞鶴海軍工廠での修理に入った。 当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月、初月)、夕雲型駆逐艦複数隻、島風型駆逐艦島風の建造、軽巡洋艦や駆逐艦複数隻(薄雲、大潮、霞《8月13日舞鶴着》、不知火《9月3日舞鶴着》、初春《11月6日舞鶴到着》。)等の修理整備工事を抱えており、那珂の修理と改造もその中でおこなわれた。近代化改装にあたっては、5番主砲が撤去され、5番主砲の位置には12.7cm連装高角砲1基が搭載された。小発動艇を4隻搭載、中甲板以下の舷窓を閉塞するなど、輸送作戦や対空戦闘に対応する改修を実施して、その訓練に従事する。1943年(昭和18年)3月31日、修理完成。
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クリスマス島攻略作戦
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「日本軍のクリスマス島占領」の記事における「クリスマス島攻略作戦」の解説
3月15日、第十六戦隊司令官原顕三郎少将(3月10日まで第五水雷戦隊司令官)を総指揮官とするクリスマス島攻略部隊が制式に編成され、3月31日の攻略を目指した。主隊/第十六戦隊(同戦隊司令官原少将:名取、長良)、警戒隊(第四水雷戦隊司令官西村祥治少将:旗艦〈那珂〉、第9駆逐隊第1小隊〈夏雲、峯雲〉、哨戒艇34号、哨戒艇36号、球磨川丸、君島丸)、陸戦部隊〈第24特別根拠地隊分遣隊450名、第21特別根拠地隊砲員200名・12cm砲4・8cm高角砲4、第102建設部隊200名〉、補給部隊(あけぼの丸)、さらに陽炎型駆逐艦天津風(第二水雷戦隊、第16駆逐隊)という兵力部署であった。なお、再編された第十六戦隊には軽巡洋艦3隻(名取、長良、鬼怒)が所属していた。当初ニューギニア攻略部隊に所属していた軽巡「長良」は、軽巡「鬼怒」(当時、蘭印~ニューギニア方面行動中)と入れ替わる形でクリスマス島攻略部隊に編入される。これは「長良」が新編制される第十戦隊(空母機動部隊警戒部隊)旗艦に内定しており、長期の作戦計画には従事させられなかったからである。また第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)は陸軍第十六軍のジャワ第二次輸送任務終了後、主隊(第十六戦隊)への合流を命じられた。 3月29日17時、第9駆逐隊(夏雲、峯雲)はジャワ島パンタム湾を出撃して対潜掃蕩を実施、19時に主隊(名取、長良)と警戒隊は出撃した。日本軍攻略部隊は米潜水艦サーモンに発見され、位置を通報されていたという。3月31日、日本軍船団は0700にクリスマス島北方15浬に到達した。ところが同島に潜水艦1隻が存在していることが判明し、軽巡3隻(名取、長良、那珂)はそれぞれ水上偵察機を射出して対潜警戒にあたらせると同時に、陸上施設を爆撃させた。「那珂」も艦砲射撃をおこなった。この時、潜水艦「シーウルフ」 (USS Seawolf, SS-197) は、艦長フレデリック・B・ウォーダー少佐の指揮下でクリスマス島沖合を哨戒していた。 クリスマス島攻略そのものは、順調に進んだ。日本軍は抵抗を受けずフライング・フィッシュ・コーブに上陸した。午前8時、クリスマス島守備隊は白旗を掲げ、警戒隊・輸送船は入泊して陸戦隊の揚陸を開始する。捕虜の中には、2月27日に撃沈された水上機母艦ラングレーの運用長も含まれていた。9時49分、「那珂」は距離1000mから発射された魚雷3本を回避し、爆雷6個を投下して撃沈確実を報告した。シーウルフは「将旗を掲げた名取級巡洋艦」に魚雷4本を発射し、1本命中と判断した(実際は命中せず)。シーウルフは爆雷攻撃に耐えながら、次の襲撃機会をうかがった。20時30分、駆逐艦「天津風」(駆逐艦長原為一中佐)が到着して対潜哨戒に加わった。 4月1日午前6時、「名取」(第16戦隊旗艦)は泊地北方20浬で雷跡1本を確認、爆雷攻撃をおこなったが効果は不明であった。シーウルフからは名取(原少将の将旗)と那珂(西村少将の将旗)の区別がつかず「昨日の目標(那珂)と目の前の目標(名取)が同一なのか」「損傷艦から健在艦へ将官が移乗したのか」「日本人にもエイプリルフールの風習があるのか」と混乱していた。シーウルフは魚雷3本を発射、魚雷1本命中と判断した(実際は命中せず)。18時4分、「那珂」及び第9駆逐隊(夏雲、峯雲)はクリスマス島北方海面を之字運動を行いながら哨戒していた。シーウルフはふたたび「那珂」を雷撃する。「那珂」より右70度距離700m地点から発射された魚雷1本(シーウルフは2本発射)が右舷中央部に命中、「那珂」は一時航行不能となった。「天津風」と哨戒艇34号が「那珂」を護衛した。19時20分、「那珂」は右舷後方約6kmに浮上潜水艦を発見してこれに発砲、駆逐艦達が爆雷攻撃を実施、その後第36号哨戒艇は20時30分に撃沈確実を報告した。シーウルフは猛烈な爆雷攻撃に晒され、緊急浮上した際に駆逐艦(艦名不明)と衝突しかけたという。 一方、西村司令官は「那珂」の曳航を第十六戦隊旗艦「名取」に依頼する。21時30分、「那珂」は「名取」に曳航され、各艦(天津風、峯雲、夏雲)に護衛されてパンタム湾への退避を開始した。また主隊と輸送船も荷揚げを打ち切って退避を開始した。22時30分、「球磨川丸」は第36号哨戒艇に護衛され、燐鉱袋詰42トンを積んだ「君島丸」は第34号哨戒艇に護衛され、それぞれ泊地を出発した。「那珂」は「名取」に曳航されてジャワ島バンタム湾へ退避したが、途中で自力航行可能となった。この時、蘭印部隊指揮官高橋伊望中将はバンタム湾に停泊していた救難船「静波丸」と第22駆逐隊第2小隊(長月、水無月)に「那珂」救援を命じていたが、「那珂」自力航行可能により「静波丸」の随伴は取りやめ、2小隊(長月、水無月)のみ合流した。4月3日午後1時40分、「那珂」はパンタム湾に到着した。またクリスマス島攻略部隊は4月3日午前9時30分の「名取」バンタム湾到着をもって解散する。シンガポールで応急修理したのち日本本土に回航された「那珂」は、舞鶴海軍工廠で本格的に修理することになった。「那珂」は6月15日附で第四水雷戦隊から除かれ、同戦隊旗艦は長良型軽巡「由良」が務めることになった。
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