南雲機動部隊別働隊の砲撃
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「日本軍のクリスマス島占領」の記事における「南雲機動部隊別働隊の砲撃」の解説
1942年(昭和17年)3月上旬、南雲忠一中将率いる南雲機動部隊(第一航空戦隊〈赤城、加賀〉、第二航空戦隊〈蒼龍、飛龍〉、第五航空戦隊〈翔鶴、瑞鶴〉)はジャワ島南方へ進出、オーストラリア方面へ脱出する連合軍艦艇を掃討していた。 3月6日10時30分、南雲司令長官は残敵掃蕩を命じ、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦榛名、4番艦金剛)、第17駆逐隊(第1小隊〈谷風、浦風〉、第2小隊〈浜風、磯風〉)の8隻は別働隊を編成、機動部隊本隊から分離した。空母2隻(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆逐第2小隊(浜風、磯風)を残し、4隻(戦艦〈榛名、金剛〉、駆逐艦〈谷風、浦風〉)は3月7日早朝にクリスマス島へ艦砲射撃を行う。約20分間の砲撃で、イギリス軍守備隊は白旗を掲げた。だが4隻は同島を占領することなく、白旗を放置してクリスマス島を去った。9日午後2時、別働隊は南雲機動部隊主隊と合流した。報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている。一方、軍令部の高松宮宣仁親王(海軍中佐、昭和天皇弟宮)は別働隊の艦砲射撃を「クリスマス島は占領予定なのに、余計なことをする」と評した。 インド人たちは、「イギリスの植民地下に置かれていたインドをイギリスの支配から解放する」という日本軍の呼び掛けに答える形で、3月10日に反乱を起こしイギリス軍の指揮官たちを殺した。 そして、島に残ったオーストラリア人とヨーロッパ人を監禁した。 3月14日、大本営は山本五十六連合艦隊司令長官に対しクリスマス島の攻略を指示する。山本長官は南方部隊指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官に同島攻略を下令、近藤長官は蘭印部隊指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官に作戦の実施を命じ、高橋司令長官は蘭印部隊機密第203番電をもってクリスマス島攻略作戦実施要領を下達した。これに対し、クリスマス島にあったのは第一次世界大戦後にシンガポールから移された6インチ砲が1門と、対空砲が3門程度であった。イギリス軍の守備隊は32人程度でその大部分はインド人であった。
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