捜索救難
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捜索救難(そうさくきゅうなん、英語: Search and Rescue:SAR)とは、危機的状況にある人物を捜索して救い出すことである[1]。
- ^ Canadian Forces (1998年5月). “B--GA--209--001/FP--001 DFO 5449 NATIONAL SAR MANUAL”. 2008年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年7月12日閲覧。
- ^ Major, R. H. (editor) (1859) Early Voyages to Terra Australis, Now Called Australia, The Hakluyt Society, London (2001 facimile edition on Google Books)
救難
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名瀬に残された被害艦船の状況はさまざまであった。まず護衛艦の状況を見ると、「長寿山丸」は自力での離礁を試み、9月20日23時35分に離礁に成功したが、舵機故障で人力操舵に頼らなければならず、護衛任務からは外されて他の被害船の救難作業に従事したのち、9月25日に名瀬を出港して佐世保に回航された。「真鶴」は浸水を免れたものの、満潮時で3メートルに足らない水深しかなく、20日中の離礁作業は引出に失敗。9月26日に再度離礁を試みて、18時に離礁に成功する。ビルジキールが損傷したのみで航海に支障はなく、10月上旬に高雄に回航されて台湾航路の護衛任務に従事ののち、10月10日から25日まで佐世保海軍工廠で修理を受けた。また、加入船のうち、「武豊丸」は9月29日6時ごろに離礁してビルジキールが屈曲したほかは異常はなく、「極洋丸」の便乗者と積荷を乗せて古仁屋に回航された。「鵬南丸」は船体がサンゴ礁に乗っかり、周囲のサンゴ礁と岩礁を爆破しつつ離礁作業を進め、10月15日6時30分に離礁。タンクに亀裂が入るなどの被害があったものの致命傷とはならず、長崎に曳航されて修理を受けた 残る「極洋丸」、「江蘇丸」および「丹後丸」の被害はあまりにも大きかった。「江蘇丸」は船体を右に10度ほど傾け、船底部の破損も甚だしいことから、早々に救難の見込みがないと判断された。再調査では再生の可能性もゼロではないと見込まれたものの、最終的に放棄された。「極洋丸」は「鵬南丸」以上に船体を押し上げられており、船底は全長にわたって大破し、機関室なども大破して浸水が甚だしかった。離礁作業は日本海難救助の見立てでは「相当困難ニシテ且ツ長期間ヲ予想」しているが、「船齢若キ優秀船ニシテ損傷ハ比較的軽微ニ付此ノ際救助ヲ強行」する予定であった、しかしながら、「極洋丸」も最終的には放棄され、1944年(昭和19年)12月15日付で除籍・解傭された。「丹後丸」も船底が全長にわたって大破し、水深はわずかに2メートル程度しかなかった。積荷の移動も一時はままならなかったが、最終的には大部分を移動することができた。10月28日に最初の離礁作業が行われたが、船首が動いたのみで失敗。以後、6度にわたって離礁が試みられたが成功せず、そのうちに11月13日朝になって潜水艦の雷撃を受けて大破する。魚雷命中により「丹後丸」の浸水の度合いは増し、11月18日になって離礁作業をいったん断念して昭和19年に入ってから作業が再開されるも、昭和19年5月12日に作業打ち切りが通告されて船体放棄が決定した。
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「救難」の例文・使い方・用例・文例
- 救難作業
- 船客たちは救難船に乗り移った.
- 救難用具
- 救難浮子
- 救難帯
- 警備と救難のため巡視に当たる船
- 捜索し救難すること
- 災害の際に救難や復旧活動を指揮する船舶
- 災害救助船という,災害の際に救難や復旧活動を指揮する船舶
- 不時着時には,衛星を使った救難信号発信装置で専用機を捜し出すことができる。
- ベン・ランドール(ケビン・コスナー)はアメリカ沿岸警備隊の伝説の救難士だ。
- ここでは最高のスイマーしか入学を許されず,そのうちのほんのわずかな者だけが実際に救難士になれるのだ。
- ベンはジェイクを救難士にするために全力をつくす。
- 彼らは特殊救難隊の隊員である。
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