丹後
丹後
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1959年に京都駅と北近畿方面を結ぶ準急列車として運転を開始し、合計2往復が運転されていた。運転時間帯の良さから、ビジネスマンや観光客から好評を得て利用客が増加し、1963年に合計4往復に増発され、1966年には急行列車化されたが、1966年10月1日から1968年9月30日までは下り1本は準急列車で運転された。これは、当時の準急列車は「100km以下を運行する急行列車」と言う位置づけであったためであるが、これにより同一列車名で急行・準急が並立することとなった。急行列車化されてもなお増発が行われ、1968年には7往復、1972年3月に8往復が運転されていが、同年10月から特急「あさしお」が運転開始したことにより運転本数は減少した。グリーン車が連結され、途中駅で分割併合を行う、比較的長編成で最後まで国鉄色車両が用いられるなど、JR化後も国鉄気動車急行の全盛期のイメージを色濃く残した気動車急行として全国の鉄道ファンの人気を集めたが、1996年に山陰本線の一部と北近畿タンゴ鉄道福知山駅 - 宮津駅 - 天橋立駅間の電化により、廃止された。 運転区間は運転開始当初は京都駅 - 天橋立駅・東舞鶴駅間であったが、1961年に敦賀駅発着の編成が連結され、1963年には東舞鶴駅経由豊岡駅発着の編成も連結されていた。急行列車化されて以降も網野駅・久美浜駅まで運転され、北近畿タンゴ鉄道宮津線に乗り入れていた。なお、東舞鶴駅 (一部は西舞鶴駅)- 敦賀駅間、宮津駅 - 豊岡駅間など、一部の列車の一部の区間は普通列車として運転されていた。 列車名は、令制国の「丹後国(たんごのくに)」が由来となっている。
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丹後(たんご)
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丹後(たんご)
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元ロシア戦艦ポルタワ。1912年(大正元年)8月28日、一等海防艦に変更。膠州湾攻略作戦に従事。1916年(大正5年)4月4日、ロシアに返還後1922年(大正11年)に解体。
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丹後(近畿北部)
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近畿地方北部の丹後地域に、豪華な副葬品をもつ大形の墳丘墓が弥生時代終末期に出現している。それは京都府赤坂今井墳墓で、37×35メートル、高さ4.2メートルほどの方形墳丘墓である。墳頂中央には巨大な墓壙が発見されているが、棺などはまだである。出土土器から3世紀初めで、この地域の政治的集団の王の墓であろうと推定されている。丹後は日本海沿岸にありながら上述の山陰・北陸とは異なり、四隅突出型墳丘墓の分布がみられない地域である。
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丹後
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天橋立(あまのはしだて): 京都府宮津市。うちわたし 岸辺はなみに くづるとも わが名はつきじ あまのはしだて(『曽丹集』、曽根好忠) 由良(ゆら): 京都府宮津市。由良の門を 渡る舟人 楫を絶え 行方も知らぬ 恋の道かな(『新古今和歌集』、曽根好忠) 三熊野浦(みくまののうら)三熊野の 浦の浜木綿 百重なる 心は思へど ただにあはぬかも(『拾遺和歌集』、柿本人麿)
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