救貧院での日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:35 UTC 版)
「ジョゼフ・メリック」の記事における「救貧院での日々」の解説
レスター・ユニオン救貧院は、1838年に400人の貧困者を収容する計画の下設立され、後年レスターの主要産業であるメリヤス関連業が不況に陥り、多くの失業者、貧困者が生まれるや、1851年には1000人を収容可能な規模に拡張されたものである。メリック入所当時には、身寄りや保護者のいない老人、寡婦、孤児、アルコール依存症者、身体障害者、知的障害者、精神障害者のほか、失業者とその妻子、浮浪者、そして故意に働かず救貧院を生活の場にしている者ら928名が収容されていた。彼らは年代、性別、健康状態などにより、親子、夫婦をもばらばらにした個人単位でグループ分けされて生活。収容者はベルを合図として起床、就寝し、男性には廃材や石材の加工、農作業、薪割り、粉挽きなど、女性には洗濯、清掃、調理場や食堂での雑務、寝具や衣服の縫製や修繕などの仕事が課され、クリスマス以外は食事も極めて粗末であったし、酒、たばこは禁止、面会、外出は許可制で、就寝時には部屋を施錠された。そして規則に反した者には食事制限や恩典の取り消し、監禁などといった罰則が下され、作業拒否や係員への暴力などといった、特に悪質な違反のあった者は治安当局に通報の上、刑務所に送られることもあった。また当時のこの種の施設の常として衛生環境は劣悪で、日常的に結膜炎が流行した。メリックは病弱者や身体障害者らのグループに属してここでの日々を過ごしていたが、こうした生活環境はメリックにとって耐え難いものであったようで、翌年の3月には自らの意思により退所、職を求めて2日間街頭をさまよい歩いたものの果たせず、再び救貧院に戻っている。1882年・20歳の時には、上あごにあった象の鼻のような形の20センチほどの肉塊の切除手術をレスター施療院で受けた。
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