第四水雷戦隊
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1942年(昭和17年)4月10日、由良はペナン島に入港。同日附で第五潜水戦隊旗艦に復帰し、シンガポール(昭南)を出発して日本本土に帰還、20日佐世保へ戻った。5月中旬まで同地で待機、修理と整備を実施する。5月9日、由良は第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)旗艦だった軽巡那珂の代艦として同戦隊に編入、それまでの第五潜水戦隊旗艦を特設潜水母艦のりおでじゃねろ丸に譲った。開戦時の四水戦旗艦だった那珂はクリスマス島の占領作戦に従事中の4月1日に米潜水艦シーウルフに雷撃され、大破していた(6月15日、四水戦より除籍)。桂島泊地に移動後の5月20日、四水戦旗艦は駆逐艦夏雲(第9駆逐隊)から由良に移った。5月22日-23日、連合艦隊第1回応用教練に参加。四水戦各隊は桂島泊地で出撃準備をおこなう。29日、由良および第四水雷戦隊は桂島泊地を出撃、ミッドウェー島へ向かう。 6月1日の時点で由良を旗艦とする第四水雷戦隊は、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第4駆逐隊(嵐、萩風、野分、舞風)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)で編制されていた。このうち第4駆逐隊は第一機動部隊(通称南雲機動部隊)の空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)直衛、第8駆逐隊は第七戦隊(司令官栗田健男少将:熊野、鈴谷、三隈、最上)に引き抜かれており、由良と別行動をとっている。ミッドウェー海戦において第四水雷戦隊は第二艦隊(司令長官近藤信竹中将:旗艦愛宕)を基幹とする攻略部隊主隊に所属しており、アメリカ艦隊と直接交戦する機会はなかった。だがアメリカ軍機動部隊が追撃してきた場合は空母瑞鳳艦載機及び各艦水上偵察機により決死攻撃を行い、しかる後に夜戦を挑む可能性もあった。6月14日、由良は呉に帰港し、27日から小松島にて待機した。この作戦中、由良の機関は旧式ながら一度も故障する事がなかったという。 6月20日、四水戦司令官は西村祥治少将から高間完少将にかわった。当時の第四水雷戦隊は、本州南岸の対潜警戒および掃蕩任務に従事。7月14日、四水戦に第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮、有明)が加入し、第4駆逐隊が編制から外れた。
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第四水雷戦隊
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1941年(昭和16年)11月26日、那珂は第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将)の旗艦となった。当時の第四水雷戦隊には、第2駆逐隊(司令橘正雄大佐:村雨、五月雨、夕立、春雨)、第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:嵐、萩風、野分、舞風)、第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐:朝雲、夏雲、峯雲、山雲)、第24駆逐隊(司令平井泰次大佐:海風、山風、江風、涼風)が所属していた。だが第4駆逐隊は南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官が率いる南方部隊本隊(旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊に所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった。 なお、戦争が起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は四水戦から第一水雷戦隊(旗艦阿武隈)へ転出、そのかわりに朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊(朝潮、満潮、大潮、荒潮)および夕雲型駆逐艦を基幹とする第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)が四水戦に配備され那珂の指揮下に入る予定であった。 太平洋戦争では最初は比島部隊第二急襲隊の一隻としてビガン攻略に参加した。第四水雷戦隊の一部(那珂および駆逐艦村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲)などからなる第二急襲隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して12月7日に馬公より出撃した。12月10日に目的地に到着し、上陸部隊は飛行場を占領した。同日、アメリカ陸軍のB-17爆撃機8機とP-40EおよびP-35戦闘機がビガンに来襲。第十号掃海艇が沈没するなど日本側の艦船に被害が生じた。那珂は至近弾により死者2名負傷者7名を出した。12月12日に第四水雷戦隊はビガンを離れた。馬公へ向かう途中、12月13日にアメリカ潜水艦セイルフィッシュを発見し那珂も爆雷攻撃を行った。 続いてリンガエン湾への上陸作戦に参加。上陸部隊を運ぶ船団は3つに別れ、それぞれ第一護衛隊から第三護衛隊が護衛する計画であった。第四駆逐隊、第二十四駆逐隊および山雲を除く第四水雷戦隊は漁船5隻と共に第二護衛隊を編成した。第二護衛隊は輸送船32隻を護衛して12月18日に馬公より出撃。3つの部隊は途中で合流してリンガエン湾へと向かい、12月22日に船団は投錨して上陸が行われた。海上では潜水艦の発見が相次ぎ、那珂、村雨、五月雨も潜水艦を探知して攻撃を行った。同日、第四水雷戦隊は馬公へ向かった。 12月26日に比島部隊の大半は蘭印部隊となり、第四駆逐隊を除く第四水雷戦隊などは西方攻略部隊の第一護衛隊を編成。蘭印攻略部隊はダバオに集合予定で、那珂は1942年1月2日にダバオに到着した。那珂はタラカン、バリクパパン攻略に参加した。 タラカン攻略部隊は1月7日にダバオから出撃し、1月10日にタラカンに到着した。1月12日にタラカンの守備隊司令官より降伏の申し出があった。これを受け掃海隊が掃海作業に向かったが、第十三号掃海艇と第十四号掃海艇が砲台からの砲撃により撃沈された。この戦闘は那珂や第二駆逐隊から目撃されていたが、敵が降伏したものと思っていたなかで起きた短時間の戦闘であったことや、機雷が敷設されている場所であったことから救援は行なえなかった。 詳細は「バリクパパン沖海戦」を参照 続いてバリクパパン攻略が行われた。攻略部隊は1月21日にタラカンより出撃し、途中空襲で被害が出たものの1月23日に目的地に到着した。24日0040分、悪天候のため浮上中であったオランダ海軍の潜水艦K XVIIIが那珂に対して魚雷4本を発射した[出典無効]。00時45分、那珂南西約1kmに停泊していた輸送船敦賀丸が被雷して沈没。西村提督は那珂と駆逐隊および哨戒艇部隊に対しK XVIIIの追跡を命じたが、失敗に終わった。この後、那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊は泊地東海面の哨戒を実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団を攻撃して輸送船を撃沈している事に気付かなかった。米艦隊が脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦、魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している。船団は輸送船5隻沈没(敦賀丸、呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37号沈没、輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害を受けた。本海戦(日本側呼称バリクパパン沖海戦、連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的に宣伝した。 1月30日に那珂は第二駆逐隊(駆逐艦1隻を除く)とともにバリクパパンを離れ、2月2日にリンガエン湾に到着。続いて2月8日から第48師団を乗せた船団を護衛した。船団は2月13日にホロに着いた。
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第四水雷戦隊
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元々は潜水艦の増強により潜水艦部隊の編制が計画された際に、それまでの3個水雷戦隊に次いで大正五年度から第三艦隊隷下に組織された戦隊で、潜水母艦韓崎と駒橋、および2個潜水艇隊で編制された。この頃は新兵器である潜水艇(潜水艦)をどう運用するか試行錯誤していた時代であり、潜水艇も「潜航できる水雷艇」という認識で水雷戦隊として編成した。その後1919年(大正8年)4月1日に「潜水艇」を「潜水艦」へ、「潜水艇隊」を「潜水隊」へ、それぞれ名称変更をおこなう。同時に四水戦も第一潜水戦隊へ改称した。この制度変更にともない、第四水雷戦隊は解隊された。 1933年(昭和8年)以来、日本海軍は海軍大演習のたびに仮想敵(赤軍)として第四艦隊を編成した。この第四艦隊に臨時編成の第三水雷戦隊と第四水雷戦隊が含まれていた。1935年(昭和10年)9月26日の第四艦隊事件では、四水戦(旗艦「那珂」)として行動していた駆逐艦初雪と夕霧の船体切断という被害を受けた。 1937年(昭和12年)7月28日、日本海軍は第九戦隊(妙高、多摩)、第三水雷戦隊(軽巡北上、第23駆逐隊、第1水雷隊、第21水雷隊)、第四水雷戦隊(軽巡木曾、第6駆逐隊、第10駆逐隊、第11駆逐隊)を新編した。四水戦の旗艦は軽巡洋艦木曾であった(司令官細萱戊子郎少将、参謀森下信衛中佐ほか)。四水戦は第二艦隊麾下に編制され、その後は第三艦隊(四代目)、第四艦隊(二代目)に所属した。1938年(昭和13年)4月19日に解隊された。 1939年(昭和14年)11月15日に第二艦隊の隷下において再編され、新任司令官には栗田健男少将が任命された。旗艦は軽巡那珂であった。日米艦隊決戦では、四水戦と第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)で第二夜戦隊を編成する。太平洋戦争開戦時は引き続き第二艦隊に所属していた。四水戦司令官は西村祥治少将であった。緒戦では南方作戦に参加、比島部隊/蘭印部隊として戦果をあげるが、1942年(昭和17年)3月末のクリスマス島の戦いで旗艦の軽巡那珂が大破し、旗艦は軽巡由良となった。 ミッドウェー作戦の四水戦は、大部分が攻略部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)として行動し、第4駆逐隊は南雲機動部隊の警戒隊(指揮官木村進第十戦隊司令官)として空母の直衛となった。4月10日付で四水戦に編入されていた第8駆逐隊は第七戦隊司令官栗田健男中将を指揮官とする支援隊に編入され、最上型重巡洋艦を護衛した。ミッドウェー海戦後、四水戦司令官は西村少将から高間完少将に代わった。 ガ島戦従事中の同年10月中旬以降、四水戦司令官は幾度か秋月型駆逐艦秋月を旗艦として作戦に臨んだ。10月下旬、ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍の総攻撃に呼応にしたガ島支援作戦において、空襲を受けた由良が沈没する。同時に旗艦秋月も損傷したため、四水戦司令官は駆逐艦村雨を経て駆逐艦朝雲に将旗を掲げた(南太平洋海戦)。同時期には天龍型軽巡洋艦も一時的に増援部隊に編入されており、11月7日から9日かけて軽巡天龍が臨時の四水戦旗艦となっている。第三次ソロモン海戦時の四水戦旗艦は朝雲であった。新鋭軽巡阿賀野の第十戦隊編入にともない、従来の第十戦隊旗艦長良が11月20日付で四水戦に編入され、同水戦旗艦を務めた(11月下旬から翌年1月下旬まで、舞鶴で修理)。1943年(昭和18年)7月20日、四水戦は第二水雷戦隊を再編するため解隊され、四水戦司令部は二水戦司令部に改編された。
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