第四水雷戦隊とは? わかりやすく解説

第四水雷戦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 21:41 UTC 版)

由良 (軽巡洋艦)」の記事における「第四水雷戦隊」の解説

1942年昭和17年4月10日由良ペナン島入港同日附で第五潜水戦隊旗艦復帰しシンガポール昭南)を出発して日本本土帰還20日佐世保戻った5月中旬まで同地待機修理整備実施する5月9日由良第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将旗艦だった軽巡那珂の代艦として同戦隊編入それまで第五潜水戦隊旗艦特設潜水母艦りおでじゃねろ丸譲った開戦時の四水戦旗艦だった那珂クリスマス島占領作戦従事中の4月1日に米潜水艦シーウルフ雷撃され大破していた(6月15日、四水戦より除籍)。桂島泊地移動後の5月20日、四水戦旗艦駆逐艦夏雲(第9駆逐隊)から由良移った5月22日-23日連合艦隊第1回応用教練参加。四水戦各隊桂島泊地出撃準備をおこなう。29日由良および第四水雷戦隊は桂島泊地出撃ミッドウェー島へ向かう。 6月1日時点由良旗艦とする第四水雷戦隊は、第2駆逐隊村雨夕立春雨五月雨)、第4駆逐隊(嵐、萩風野分舞風)、第8駆逐隊朝潮荒潮)、第9駆逐隊朝雲夏雲峯雲)で編制されていた。このうち第4駆逐隊第一機動部隊(通称南雲機動部隊)の空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)直衛、第8駆逐隊第七戦隊司令官栗田健男少将熊野鈴谷三隈最上)に引き抜かれており、由良別行動とっている。ミッドウェー海戦において第四水雷戦隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将旗艦愛宕)を基幹とする攻略部隊主隊に所属しており、アメリカ艦隊直接交戦する機会はなかった。だがアメリカ軍機動部隊追撃してきた場合空母瑞鳳艦載機及び各艦水上偵察機により決死攻撃行いしかる後夜戦挑む可能性もあった。6月14日由良は呉に帰港し27日から小松島にて待機した。この作戦中、由良機関旧式ながら一度故障する事がなかったという。 6月20日、四水戦司令官西村祥治少将から高間少将かわった当時の第四水雷戦隊は、本州南岸対潜警戒および掃蕩任務従事7月14日、四水戦第27駆逐隊時雨白露夕暮有明)が加入し、第4駆逐隊編制から外れた

※この「第四水雷戦隊」の解説は、「由良 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「第四水雷戦隊」を含む「由良 (軽巡洋艦)」の記事については、「由良 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。


第四水雷戦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 06:42 UTC 版)

那珂 (軽巡洋艦)」の記事における「第四水雷戦隊」の解説

1941年昭和16年11月26日那珂は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)の旗艦となった当時の第四水雷戦隊には、第2駆逐隊司令雄大佐:村雨五月雨夕立春雨)、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐:嵐、萩風野分舞風)、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐朝雲夏雲峯雲山雲)、第24駆逐隊司令平井泰次大佐海風山風江風涼風)が所属していた。だが第4駆逐隊南方部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官率い南方部隊本隊旗艦愛宕)に引き抜かれる形で同部隊所属しており、第四水雷戦隊の直率下にはなかった。 なお、戦争起きなければ第2駆逐隊と第24駆逐隊は四水戦から第一水雷戦隊旗艦阿武隈)へ転出そのかわり朝潮型駆逐艦4隻の第8駆逐隊朝潮満潮大潮荒潮)および夕雲型駆逐艦基幹とする第10駆逐隊秋雲夕雲巻雲風雲)が四水戦配備され那珂指揮下に入る予定であった太平洋戦争では最初比島部隊第二急襲隊の一隻としてビガン攻略参加した。第四水雷戦隊の一部那珂および駆逐艦村雨夕立春雨五月雨朝雲夏雲峯雲)などからなる第二急襲隊は上陸部隊乗せた船団護衛して12月7日馬公より出撃した。12月10日目的地到着し上陸部隊飛行場占領した同日アメリカ陸軍B-17爆撃機8機とP-40EおよびP-35戦闘機ビガン来襲第十号掃海艇沈没するなど日本側の艦船被害生じた那珂至近弾により死者2名負傷者7名を出した12月12日に第四水雷戦隊はビガン離れた馬公へ向かう途中12月13日アメリカ潜水艦セイルフィッシュ発見し那珂爆雷攻撃行った続いてリンガエン湾の上作戦参加上陸部隊を運ぶ船団3つ別れそれぞれ第一護衛隊から第三護衛隊護衛する計画であった第四駆逐隊第二十四駆逐隊および山雲を除く第四水雷戦隊は漁船5隻と共に第二護衛隊編成した第二護衛隊輸送船32隻を護衛して12月18日馬公より出撃3つの部隊途中で合流してリンガエン湾へと向かい12月22日船団投錨して上陸が行われた。海上では潜水艦発見が相次ぎ那珂村雨五月雨潜水艦探知して攻撃行った同日、第四水雷戦隊は馬公向かった12月26日比島部隊大半蘭印部隊となり、第四駆逐隊を除く第四水雷戦隊などは西方攻略部隊第一護衛隊編成蘭印攻略部隊ダバオ集合予定で、那珂1942年1月2日ダバオ到着した那珂タラカンバリクパパン攻略参加したタラカン攻略部隊1月7日ダバオから出撃し、1月10日タラカン到着した1月12日タラカン守備隊司令官より降伏申し出があった。これを受け掃海隊が掃海作業向かったが、第十三号掃海艇第十四号掃海艇砲台からの砲撃により撃沈された。この戦闘那珂第二駆逐隊から目撃されていたが、敵が降伏したものと思っていたなかで起きた短時間戦闘であったことや、機雷敷設されている場所であったことから救援行なえなかった。 詳細は「バリクパパン沖海戦」を参照 続いてバリクパパン攻略が行われた。攻略部隊1月21日タラカンより出撃し、途中空襲被害出たものの1月23日目的地到着した24日0040分、悪天候のため浮上であったオランダ海軍潜水艦K XVIIIが那珂に対して魚雷4本を発射した[出典無効]。0045分那珂南西1km停泊していた輸送船敦賀丸被雷して沈没西村提督那珂駆逐隊および哨戒艇部隊対しK XVIIIの追跡命じたが、失敗終わったこの後那珂および第2駆逐隊・第9駆逐隊泊地東海面哨戒実施するが、北上してきたアメリカ海軍第5任務部隊駆逐艦4隻(ジョン・D・フォードポープパロットポール・ジョーンズ)が、護衛のいなくなった船団攻撃して輸送船撃沈している事に気付かなかった。米艦隊脱出したのち、西村提督は「敵潜水艦魚雷艇ニ対シ警戒ヲ厳ニセヨ」と下令している。船団輸送船5隻沈没敦賀丸呉竹丸、須磨浦丸、辰神丸)、哨戒艇37沈没輸送船2隻(球磨川丸、朝日山丸)損傷という大きな損害受けた。本海戦日本呼称バリクパパン沖海戦連合国軍呼称マカッサル海戦)は、アメリカ海軍にとって太平洋戦争緒戦における数少ない勝利であり、大々的宣伝した1月30日那珂第二駆逐隊駆逐艦1隻を除く)とともにバリクパパン離れ2月2日リンガエン湾到着続いて2月8日から第48師団乗せた船団護衛した船団2月13日ホロ着いた

※この「第四水雷戦隊」の解説は、「那珂 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「第四水雷戦隊」を含む「那珂 (軽巡洋艦)」の記事については、「那珂 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。


第四水雷戦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 09:24 UTC 版)

水雷戦隊」の記事における「第四水雷戦隊」の解説

元々は潜水艦増強により潜水艦部隊の編制計画された際に、それまでの3個水雷戦隊次いで大正五年度から第三艦隊隷下組織され戦隊で、潜水母艦韓崎駒橋、および2個潜水艇隊で編制された。この頃新兵器である潜水艇潜水艦)をどう運用する試行錯誤していた時代であり、潜水艇も「潜航できる水雷艇」という認識水雷戦隊として編成したその後1919年大正8年4月1日に「潜水艇」を「潜水艦」へ、「潜水艇隊」を「潜水隊」へ、それぞれ名称変更をおこなう。同時に水戦第一潜水戦隊改称した。この制度変更にともない、第四水雷戦隊は解隊された。 1933年昭和8年以来日本海軍海軍演習のたびに仮想敵赤軍)として第四艦隊編成した。この第四艦隊臨時編成第三水雷戦隊と第四水雷戦隊が含まれていた。1935年昭和10年9月26日第四艦隊事件では、四水戦旗艦那珂」)として行動していた駆逐艦初雪夕霧船体切断という被害受けた1937年昭和12年7月28日日本海軍第九戦隊妙高多摩)、第三水雷戦隊軽巡北上、第23駆逐隊、第1水雷隊、第21水雷隊)、第四水雷戦隊(軽巡木曾、第6駆逐隊第10駆逐隊、第11駆逐隊)を新編した。四水戦旗艦軽巡洋艦木曾であった司令官細萱戊子郎少将参謀森下信衛中佐ほか)。四水戦第二艦隊麾下編制されその後第三艦隊(四代目)、第四艦隊(二代目)に所属した1938年昭和13年4月19日解隊された。 1939年昭和14年11月15日第二艦隊隷下において再編され新任司令官には栗田健男少将任命された。旗艦軽巡那珂であった日米艦隊決戦では、四水戦第七戦隊熊野鈴谷三隈最上)で第二夜戦隊を編成する太平洋戦争開戦時引き続き第二艦隊所属していた。四水戦司令官西村祥治少将であった緒戦では南方作戦参加比島部隊/蘭印部隊として戦果をあげるが、1942年昭和17年3月末のクリスマス島戦いで旗艦軽巡那珂大破し旗艦軽巡由良となったミッドウェー作戦の四水戦は、大部分攻略部隊本隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)として行動し、第4駆逐隊南雲機動部隊警戒隊(指揮官木村進第十戦隊司令官)として空母の直衛となった4月10日付で四水戦編入されていた第8駆逐隊第七戦隊司令官栗田健男中将指揮官とする支援隊に編入され最上型重巡洋艦護衛したミッドウェー海戦後、四水戦司令官西村少将から高間少将に代わった。 ガ島従事中の同年10月中旬以降、四水戦司令官幾度か秋月型駆逐艦秋月旗艦として作戦臨んだ10月下旬ヘンダーソン飛行場対す日本陸軍総攻撃呼応にしたガ島支援作戦において、空襲受けた由良沈没する同時に旗艦秋月損傷したため、四水戦司令官駆逐艦村雨経て駆逐艦朝雲将旗掲げた南太平洋海戦)。同時期に天龍型軽巡洋艦一時的に増援部隊編入されており、11月7日から9日かけて軽巡天龍臨時の四水戦旗艦となっている。第三次ソロモン海戦時の水戦旗艦朝雲であった新鋭軽巡阿賀野第十戦隊編入にともない従来第十戦隊旗艦長良11月20日付で四水戦編入され、同水戦旗艦務めた11月下旬から翌年1月下旬まで、舞鶴修理)。1943年昭和18年7月20日、四水戦第二水雷戦隊再編するため解隊され、四水戦司令部二水司令部改編された。

※この「第四水雷戦隊」の解説は、「水雷戦隊」の解説の一部です。
「第四水雷戦隊」を含む「水雷戦隊」の記事については、「水雷戦隊」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第四水雷戦隊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第四水雷戦隊」の関連用語

第四水雷戦隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第四水雷戦隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの由良 (軽巡洋艦) (改訂履歴)、那珂 (軽巡洋艦) (改訂履歴)、水雷戦隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS