第二夜戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:57 UTC 版)
11月14日深夜、ガダルカナル島~サボ島海域(通称アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡))にて、旗艦愛宕以下日本海軍前進部隊はアメリカ軍第64任務部隊と交戦した。海戦序盤の水雷戦で前進部隊は駆逐艦綾波を喪失し、第64任務部隊は4隻の駆逐艦全隻が戦闘不能となった。この頃、サウスダコタは機関部で起きた漏電により大規模な停電が発生したが、3分後に復旧した。この時、旗艦のワシントンは米駆逐艦の残骸を回避するため左に転舵したが、サウスダコタは右に転舵し、針路を西に戻した時には「ワシントン」の右後方1.7kmを航行することになった。分離した2隻の米戦艦に対し、まず第三水雷戦隊川内、浦波、敷波がサウスダコタを砲撃し、再び停電を発生させた。だが魚雷攻撃による決定的打撃を与えられぬまま、近藤中将の命令により3水戦は綾波救援用の浦波を残してサボ島東南東方面の海域掃討に向かった。 続いて愛宕、高雄、霧島がサウスダコタ、ワシントンと交戦した。当初照月、朝雲は霧島の後方を航行していたが、反転により日本艦隊射撃部隊は朝雲、照月、愛宕(旗艦)、高雄、霧島という単縦陣となっていた。近藤中将は米艦隊が敗走したと錯覚しており、霧島の主砲塔にはヘンダーソン飛行場攻撃用の三式弾が準備されていた。対艦戦闘用の徹甲弾に変更する時間的猶予がなく、そのまま三式弾で砲撃を開始。10時1分、愛宕、霧島は探照灯を照射して6000m先に新型戦艦(サウスダコタ)を発見した。サウスダコタはすでに前進部隊水雷戦隊との交戦で損傷を受けており、レーダーで4.8km先に近藤艦隊を発見した時には照射攻撃を受けていた。リー提督から「大丈夫か?」との質問にサウスダコタのギャッチ艦長は「全て上手くいっているようだ」と返信したものの、多数の命中弾を受けたサウスダコタはレーダー機能と通信設備および第三砲塔使用不能という被害を受けて戦場から離脱した。なお多数発射された酸素魚雷(一例として愛宕19本、朝雲4本、他水雷戦隊各艦多数発射)は、日本艦隊側は命中と誤認したものの、これらは米駆逐艦の残骸に命中したり、あるいは波に叩かれて自爆するなどして1本も命中していなかった。 愛宕以下の日本艦隊の攻撃が、探照灯に照射された手前のサウスダコタに集中していた為、サウスダコタから離れてガ島側を航行していたワシントンは、日本艦隊からの攻撃を受けていなかった。そのワシントンでもレーダーでとらえていた大型の目標がサウスダコタなのか日本戦艦(霧島)なのか判別できなかったが、探照灯により目標を識別し、16インチ砲9門による砲撃を開始した。さらに米戦艦の発射した照明弾により日本艦隊は完全に姿を露呈させられた。霧島はわずか7分間に16インチ砲9発の命中弾を受けたとされる。霧島戦闘詳報によれば、6発以上の被弾により前部電信室全滅、三番四番砲塔作動不能、舵機故障と被害が累加していった。22時8分の時点で、霧島は米戦艦を追撃する愛宕、高雄の艦隊運動に続行できず落伍していた。その後火災は鎮火し、機械室や罐室も無事であったが舵取機室が満水となり面舵10度で固定、右舷に傾斜して直進不能となる。愛宕、高雄は戦場を迷走する霧島を残してワシントンとの戦闘を続け、その後日米双方とも戦場を避退した。朝雲、照月が霧島の護衛として残置されていた。 戦場に残された霧島の艦内では、蒸気パイプが破損して噴出した高圧蒸気によって機関科員の殆どが戦死した。再び火災が発生して弾薬庫誘爆の危機に陥ったため、注水作業を行った。右舷に傾斜したため水平に戻すべく左舷に注水したところ、逆に一気に左に傾いてしまったという証言もある。潜水夫による海中からの作業も失敗し、軽巡洋艦長良による曳航も不可能と判断された。23時50分、右に傾斜しつつあった霧島は朝雲に救援を依頼し、さらに『艦内大破操舵不能』『微速位出る見込み』と伝達した。これを受けて朝雲は霧島の状況と、艦尾魚雷命中による浸水(ワシントンの40㎝砲弾と思われる)を報告した。霧島の状況は悪化する一方であり、00時42分、岩淵三次艦長は総員退去を決定した。軍艦旗降下の後、霧島乗組員は接舷した駆逐艦「朝雲」に移乗を開始した。午前1時、五月雨が到着した。処分命令が出たため五月雨が砲撃しようとしたところ、霧島は急激に左傾斜を増した。11月15日午前1時23分、サボ島西方(265度)11浬の地点で霧島は左舷後部から転覆して沈没した。朝雲、照月、五月雨はしばらく沈没海域に留まって救助を行った。2時30分、救助を終え北方へ避退を開始。岩淵艦長を含む生存者準士官以上69名、下士官兵1031名を救助した。 この海戦により、田中増援部隊指揮官はアメリカ艦隊が撤退した空隙を突いて、輸送船4隻をガダルカナル島のタサファロンガの砂浜に座礁させ、かろうじて兵員の上陸を成功させた。しかし軍需物資を揚陸する前に米軍機の空襲がはじまり、爆撃により大部分は喪失した。宇垣連合艦隊参謀長は「夜嵐に黄菊の折れや枝六つ(比叡、霧島、衣笠、夕立、暁、綾波の亡失を悼む)」「嵐あと流るゝ星の影淡し(戦艦二隻を逸せるが如し)」と著作に記した。前日の比叡の喪失に続く霧島の沈没は日本海軍にとっても衝撃は大きく、以降の海戦での戦艦投入に慎重になった事で、太平洋戦争後期には戦艦を有効戦力として活かす機会に遂に恵まれなかった。なお大本営発表では戦艦1隻(比叡艦名は公表せず)沈没・戦艦1隻大破であり、霧島の喪失は伏せられてしまった。同年12月20日除籍。また同日をもって第十一戦隊も除籍された。
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