1941年 - 1942年11月まで
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「電 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1941年 - 1942年11月まで」の解説
電は12月4日から香港攻略戦に参加。次いで1942年(昭和17年)1月9日からはメナド攻略戦に参加するが、1月20日、ダバオ湾口付近で特設運送船(給糧)仙台丸(日本水産、472トン)と衝突し、翌21日に工作艦明石に横付けし応急修理、さらに1月29日に馬公市に回航され、1月30日から2月17日まで馬公工作部で修理を実施した。修理後は高雄市に回航され、2月21日に重巡洋艦妙高を護衛のため高雄市を出撃、3月1日にスラバヤ沖海戦に参加。イギリスの重巡洋艦エクセターに魚雷を放ち、撃沈に至らしめている。このとき電では「沈みゆく敵艦に敬礼」との艦内放送が流れ、乗組員らが甲板で敬礼したという。直後、エクセターから海に飛び込む水兵らが目撃され、竹内一艦長の「敵兵を救助せよ」の命令により376名のイギリス兵を救助した。 間もなく日本に向かい、3月26日に呉に帰投後4月3日に横須賀に回航、4月15日あるいは23日から5月18日まで三菱横浜船渠で修理ののち、横須賀でも5月20日まで修理が行われた。この5月20日に北方部隊所属となったあと、先に整備と修理を終えた暁、響、雷の後を追う形で5月22日に横須賀を出港して陸奥湾に向かった。 「電」は重巡洋艦「那智」、駆逐艦「雷」とともに北方部隊の主隊としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。主隊は5月29日に川内湾を出港し、6月2日に幌筵島に到着。翌日、同地を出撃した。AL作戦ではアッツ島とキスカ島の占領が行われた。続いて「電」は6月25日から28日にかけて大湊からキスカ島への燃料、弾薬の輸送に従事した。7月5日、駆逐艦「子日」がアメリカ潜水艦「トライトン」の雷撃で撃沈された。救援におもむいた「電」は「子日」の生存者36名を収容、さらに撃ち込まれた魚雷3本を回避したのち爆雷9個を投下して反撃した。7月10日から15日の間は、キスカ島へ陸戦隊などを運んだ特設運送船「あるぜんちな丸」をキスカ島から横須賀まで護衛した。 「電」は7月31日まで停泊ののち、7月5日にアメリカ潜水艦「グロウラー」の雷撃で大破した「霞」救援中の「雷」から任務を継承するため横須賀を出港。8月3日に幌筵島片岡湾に到着し、「霞」の曳航を「雷」から引き継いで8月5日に出港。8月9日に石狩湾に到着。前日アメリカ艦隊がキスカ島を砲撃したことから「電」は加熊別湾への進出を命じられ、「霞」の曳航は特設運送船(給油)「富士山丸」に引き継いだ。その後キスカ島へ移動し、8月15日から20日にかけて「霞」と同じくグロウラーの攻撃で大破した「不知火」を片岡湾まで曳航した。 ガダルカナル島の戦いが緊迫化するに伴って第六駆逐隊は南方へ回ることとなり、8月28日に機動部隊に編入された。これに伴い、「電」、「暁」、「雷」は8月29日に大湊を出港して呉に向かった。 呉に回航後、電は瀬戸内海西部で第二航空戦隊(角田覚治少将)の空母飛鷹および隼鷹と訓練を実施した。10月4日、電、磯波は飛鷹、隼鷹を護衛して呉を出撃し、10月9日にトラックに到着。ガダルカナル島の戦いに加わる。10月20日深夜、空母飛鷹で機関室火災が発生して戦闘航海不可能となり旗艦任務および艦載機を隼鷹に移譲、電、磯波は飛鷹を護衛してトラック泊地へ向かった。また船団護衛任務に従事した。11月9日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊に属しトラックを出撃。挺身攻撃隊の戦力は戦艦比叡、霧島、軽巡長良、駆逐艦天津風、雪風、照月、暁、雷、電、朝雲《四水戦旗艦》、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、夕暮で、時雨、白露、夕暮はガ島〜ルッセル諸島間警戒のため夜戦には参加していない。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月12日深夜〜11月13日未明、ノーマン・スコット少将率いるアメリカ海軍巡洋艦部隊(重巡2、軽巡3、駆逐艦8)との間に第三次ソロモン海戦(十二日第一夜戦)が生起。本夜戦において第6駆逐隊から姉妹艦の暁が沈没、雷が大破、三番艦として行動していた電は弾片で魚雷発射管動力電路切断という軽微な損害を受けた。このあと霧島、朝雲、春雨、電の一群となって戦場を離脱した。電は魚雷6本と主砲54発を発射。残魚雷11本、主砲残弾846発。雷撃により防空巡洋艦1轟沈、砲撃により防空巡洋艦1中破、巡洋艦1小破という戦果を報告した。一連の夜戦で暁以外に比叡、夕立が沈没、天津風が中破している。電幹部は探照灯を照射した旗艦比叡が集中砲撃を受けて航行不能(のち自沈)したことを踏まえ、従来の夜戦戦術に対して『再考を要す』と提言している。 一旦ガダルカナル島海域を離脱したのち前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)と合流した霧島、電等は、燃料補給を受けたのち重巡愛宕および近藤長官直率下で再びガ島ルンガ泊地へ突入、ガ島飛行場砲撃を行うことになった。ガ島砲撃隊の編制は、射撃隊(砲撃隊《愛宕、高雄、霧島》、四戦隊直衛《長良、電、五月雨》、霧島直衛《朝雲、白雪、初雪、照月》)・掃討隊(川内《三水戦旗艦》、敷波、浦波、綾波)に区分され、戦艦1・重巡2・軽巡2・駆逐艦9であった。11月14日深夜、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦ワシントン、サウスダコタと駆逐艦4隻が近藤艦隊を迎撃し、第三次ソロモン海戦(十四日第二夜戦)となる。第十戦隊司令官指揮下の「長良、五月雨、電、白雪、初雪」はサボ島西方を通過して南方へ進出、『敵巡洋艦1・駆逐艦3』(のちに戦艦2隻と報告)に対し雷撃戦を敢行した。この時、電は魚雷4本を発射。米駆逐艦も応戦し、魚雷2本が電の艦底を通過している。魚雷発射後、十戦隊部隊はサボ島北西に避退しつつ魚雷の次発装填を行った。その後白雪、初雪、電、五月雨は米新型戦艦に雷撃戦を敢行し、初雪が魚雷3本・電が5本・五月雨が5本を発射するも、ワシントン、サウスダコタに被害はなかった。14日夜戦で電は魚雷合計9本、主砲81発、13mm機銃400を発射。雷撃で大巡1撃沈、砲撃で大巡1中破を報告しているが、実際の戦果は不明(アメリカ軍は駆逐艦3喪失、1隻大破)。 それ以上の戦闘は生起せず、沈没した霧島、綾波を除く近藤艦隊は戦場を離脱、電は前進部隊と共に11月18日にトラックに帰投した。しかし、2日後の11月20日にはトラックを出港してラバウルに進出し、東部ニューギニアへの輸送作戦に従事することとなった。
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