あるぜんちな丸
大阪商船最大の豪華客船。物資不足の時期に主機関をはじめ全てが国産品で造られた。丸みを帯びた煙突と優美な船容は独特の形態美を備えていた。時局緊迫化のため予定の南米航路に就いたのは僅か15ヶ月間で、1942年特設空母・海鷹となる。1945年別府湾で触雷して擱座、翌年解体。
あるぜんちな丸
あるぜんちな丸
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あるぜんちな丸(あるぜんちなまる、Argentina Maru)は、かつて大阪商船および商船三井客船(日本移住船)が所有し運航していた貨客船。大阪商船所属の初代は、あるぜんちな丸級貨客船のネームシップとして西回り南米航路に就航して移民輸送に活躍するも、太平洋戦争中に特設運送船を経て空母に改装され、空母「海鷹」となった。第二次世界大戦後に就航した大阪商船および商船三井客船(日本移住船)所属の二代目も、南米への移民輸送に活躍した。
注釈
- ^ 第二聯合特別陸戦隊(司令官大田實大佐)、横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)、呉鎮守府第五特別陸戦隊(司令林鉦次郎中佐)は[24]、同年5月1日に新編されたばかりだった[25]。
- ^ ミッドウェー作戦成功後、第二連合特別陸戦隊は根拠地隊となってミッドウェー島守備隊となる予定だった[27]。
- ^ 第二連合特別陸戦隊司令部と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊は[31]、姉妹船ぶらじる丸に乗船していた[32]。
- ^ PBY飛行艇の夜間雷撃で「あけぼの丸」が損傷したが、攻略船団に続行した[36]。
- ^ 当時の霰駆逐艦長は「水上機母艦春日を護衛した。」「司令駆逐艦は霞だった。」と回想しているが[50]、春日は日露戦争時代の春日型装甲巡洋艦、18駆の司令駆逐艦は不知火である[51]。
- ^ 横須賀から駆け付けた護衛部隊や駆潜艇の爆雷攻撃により[48]、ノーチラスは損傷してハワイに帰投した[52]。
- ^ 渡辺監督官は12月9日付で横須賀鎮守府付となった[62]。
- ^ 大連航路と台湾航路就航船は燃料炭の産地が近く、かつ安く入手できたためタービン機関を採用していた(#商船八十年史 p.59)。
- ^ 当時は島津久永と結婚して4か月ばかりのころ。
出典
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- 1 あるぜんちな丸とは
- 2 あるぜんちな丸の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
あるぜんちな丸
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詳細は「あるぜんちな丸」を参照 日本海軍は空母の不足を補うために高速貨客船建造に助成金を与え、代償として有事には特設艦船に改造する計画であった。1939年(昭和14年)6月に竣工した大阪商船所属の「あるぜんちな丸」も、そのなかの1隻であった。あるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸、ぶらじる丸)は優秀船舶建造助成施設に基づく政府の補助を受けて南米航路の貨客船として建造された。 1941年(昭和16年)9月、日本海軍に徴傭される。12月上旬、連合国との間に太平洋戦争が勃発。1942年(昭和17年)5月1日、日本海軍は姉妹船2隻(あるぜんちな丸、ぶらじる丸)を特設運送艦と類別する。2隻とも横須賀鎮守府所管。連合艦隊附属となる。同日附で渡部威中佐が、あるぜんちな丸監督官に任命された。 5月下旬より、あるぜんちな丸級2隻(あるぜんちな丸、ぶらじる丸)は兵員輸送船としてミッドウェー作戦に参加した。他の輸送船や護衛の第二水雷戦隊及び同隊所属の駆逐艦雪風等と共に行動する。本海戦で、日本海軍の正規空母4隻と重巡1隻が沈没する。海軍は、航空母艦の急速増勢を行うことを決定した。 6月30日、日本海軍は昭和18年度においてあるぜんちな丸、シャルンホルスト、千歳、千代田、ぶらじる丸の空母改造を決定する(官房機密第8107号)。ただし、ぶらじる丸は同年8月5日にアメリカ海軍潜水艦グリーンリング (USS Greenling, SS-213) の雷撃により撃沈されている。 詳細は「7月5日の海戦 (1942年)」を参照 ミッドウェー海戦後、横須賀に帰投していたあるぜんちな丸は、アリューシャン攻略作戦に従事する。大本営はアッツ島とキスカ島の長期確保を企図しており、千代田艦長指揮下の輸送部隊がミッドウェー島占領のため編成されていた海軍陸戦隊を北方方面に輸送することになった。6月28日、千代田艦長原田覚大佐指揮下の輸送隊(水上機母艦千代田、特設運送船あるぜんちな丸、第18駆逐隊〈不知火、霞、霰〉)は横須賀を出発する。7月4日夕刻から5日未明にかけて千代田輸送隊はキスカ島に到着、あるぜんちな丸と千代田は同島キスカ湾に入港した。だがアメリカ潜水艦グロウラー (USS Growler, SS-215) の襲撃により、第18駆逐隊は霰轟沈、不知火と霞は大破航行不能という大損害を蒙った(7月5日の海戦)。7月10日、あるぜんちな丸は軽巡洋艦阿武隈(同日夜まで)と駆逐艦電(第6駆逐隊)と共に、キスカ湾を出発した。7月15日、2隻(あるぜんちな丸、電)は横須賀に戻った。その後、あるぜんちな丸は内地~東南アジア方面で活動した。 同年12月9日、渡部中佐(あるぜんちな丸監督官)は横須賀鎮守府付となる。12月20日、三菱長崎で空母への改造作業に着手した。仮称艦名第1005号艦。貨客船時代のディーゼルエンジンを、駆逐艦用の蒸気タービン機関に換装する大工事となった。 1943年(昭和18年)2月、空母へ改造中の3隻(千代田、千歳、あるぜんちな丸)は、臨時に戦時編制から除かれることになった。11月23日、工事完成。日本海軍はあるぜんちな丸を軍艦(ぐんかん)海鷹(かいよう)と改名した。 海鷹は大鷹型航空母艦に類別される。横須賀鎮守府籍。連合艦隊附属。高尾儀六大佐(前職、水上機母艦秋津洲艦長)が海鷹艦長に任命された。
※この「あるぜんちな丸」の解説は、「海鷹 (空母)」の解説の一部です。
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