海軍徴傭
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1941年(昭和16年)9月29日、「あるぜんちな丸」は日本海軍に徴傭される。当初は一般徴傭船としてトラック諸島、サイパン島、クェゼリン環礁などへの輸送任務に従事する。1942年(昭和17年)5月1日付で特設運送船となって連合艦隊に付属され、呉海軍工廠で12センチ砲2門と7.7ミリ機銃2基の装備をはじめとする艤装工事を受ける。呉停泊中、「あるぜんちな丸」に第二連合特別陸戦隊司令官大田実大佐がやってきて、「あるぜんちな丸」が今後投入される作戦についての説明を行った。「あるぜんちな丸」の任務は「ぶら志゛る丸」(大阪商船、12,752トン)とともに呉第五特別陸戦隊を乗船させ、「ミッドウェー島(MI)」まで輸送することであった。 特別陸戦隊員816名を乗せた「あるぜんちな丸」は、「特設巡洋艦「清澄丸」(国際汽船、8,613トン)などとともに5月15日に呉を出撃して5月20日にサイパン島に到着する。各種訓練を行ったのち攻略部隊を編成し、5月28日に第二水雷戦隊(田中頼三少将)などの護衛の下にサイパン島を出撃して、一路ミッドウェー島に向かう。しかし、攻略部隊は6月4日になってB-17やPBY カタリナの雷爆撃を受け、その攻撃は「船団中ノ最豪華船ニシテ且比較的後尾ニ占位セル」「あるぜんちな丸」を目標にしたかのようであった。「あるぜんちな丸」は固有の機銃2基に加えて陸戦隊の機銃12基の加勢を得て、航空機を撃退した。ただ、撃退したとはいえ、のちの戦訓所見では「七粍七機銃ハ殆ント其ノ効果ナキガ如シ」と対空火器の貧弱さを指摘し、「是非トモ何等カノ工作ヲ施シテ対空射程四、五千米程度ヲ有スル相当有力ナル火器ヲ成ルベク多数装備セラレンコトヲ望ム」と戦闘詳報は締めくくっている。翌6月5日、ミッドウェー海戦が生起して第一航空艦隊(南雲忠一中将)が壊滅し、作戦が中止になったため攻略部隊も反転せざるを得なかった。6月13日、「あるぜんちな丸」は大宮島(グアム)に帰投。間もなくアリューシャン方面の戦いに投入され、7月5日に部隊をキスカ島に上陸させた。 8月1日に連合艦隊付属から離れた「あるぜんちな丸」は、昭南(シンガポール)、マカッサル、スラバヤ方面への輸送任務を行う。10月に高雄へ予備学生を輸送したあと、空母改装のため12月10日付で日本海軍に買収された。改装の際、搭載していたディーゼル機関のままでは速力が不足したのでタービン機関に換装されることとなり、陸揚げしたディーゼル機関は1基が川崎型油槽船最終船の「久栄丸」(日東汽船、10,171トン)に搭載された。もう1基は10月24日に米潜トリガー(USS Trigger, SS-237)の雷撃により日章丸(昭和タンカー、10,526トン)の機関が大破し復旧不能と判断されたため、代わりの機関として搭載された。空母改装以降については「海鷹」の項目を参照されたい。
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