第7、第8の哨戒 1943年5月 - 9月
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「ポラック (潜水艦)」の記事における「第7、第8の哨戒 1943年5月 - 9月」の解説
5月10日、ポラックは7回目の哨戒でマーシャル諸島方面に向かった。5月16日にアイルック環礁を、翌5月17日にウォッジェ環礁をそれぞれ偵察。続いてウォッジェ環礁トートン水道(シシュマレフ水道)西方を哨戒。5月18日、ポラックは北緯08度33分 東経171度00分 / 北緯8.550度 東経171.000度 / 8.550; 171.000のマロエラップ環礁エニチュアン水道沖で特設砲艦光島丸(飯野海運、3,110トン)を撃沈。2日後の5月20日午後、ポラックはジャルート環礁ジャンボール水道付近で環礁内に入りつつあった特設巡洋艦盤谷丸(大阪商船、5,350トン)を発見。魚雷を4本発射し、魚雷の命中を受けた盤谷丸は轟沈した。護衛の駆逐艦雷が反撃に出て、21発もの爆雷を投下した。この攻撃でポラックは電池と潜舵が損傷したが、それ以上の被害はなかった。6月25日、ポラックは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 7月20日、ポラックは8回目の哨戒で日本近海に向かった。8月6日に輸送船団に対して攻撃を行ったが、最初の攻撃は成功しなかった。続く再攻撃で魚雷を1本命中させたと判断された。続いて九州東方沖を哨戒。8月27日未明、ポラックは九州沖でパラオから佐伯に向かうフ806船団を発見。陸軍船太福丸(日本郵船、3,520トン)に向けて魚雷を5本発射し、3本は船首前方と船体の下を通過したが残り2本が命中し、太福丸は北緯32度28分 東経132度23分 / 北緯32.467度 東経132.383度 / 32.467; 132.383の地点で沈没した。ポラックは哨戒海域を東に移し、一週間後の9月3日夕方に北緯33度43分 東経140度00分 / 北緯33.717度 東経140.000度 / 33.717; 140.000の三宅島近海でトラックから横須賀に向かっていた第4827船団を発見。そのうちの1隻である特設給炭油船田子の浦丸(三菱汽船、3,521トン)に向けて魚雷を3本発射。1本が田子の浦丸に命中し、田子の浦丸は船首を先にして沈没していった。9月16日、ポラックは47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。帰投後、ポラックは太平洋艦隊駆逐艦部隊の訓練に供用され、11月19日から1944年2月8日まで真珠湾海軍工廠でオーバーホールに入った。
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第7、第8の哨戒 1943年5月 - 9月
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「スカルピン (SS-191)」の記事における「第7、第8の哨戒 1943年5月 - 9月」の解説
5月24日、スカルピンは7回目の哨戒で日本近海に向かった。6月9日夜、スカルピンは北緯31度30分 東経143度10分 / 北緯31.500度 東経143.167度 / 31.500; 143.167の東京湾南方、孀婦岩近海で、駆逐艦2隻を伴った空母飛鷹を発見。6,400メートルの遠距離ながら魚雷4本を発射したが、1本は途中で爆発し、残りは命中しなかった。スカルピンは2回目の攻撃準備を急いだが、その間に飛鷹は去っていった。6月14日、スカルピンは貨物船を攻撃し、損傷を与えたと判断されたが、護衛艦の攻撃を回避するため無音潜航を余儀なくされた。6月19日、スカルピンは犬吠埼沖で海軍徴傭漁船第一宮庄丸(宮内庄助、79トン)と特設監視艇相模丸(神奈川県、135トン)を砲撃により撃沈した。スカルピンは、哨戒の残り期間は東北地方沿岸で行動し、何隻かの好目標を発見したものの、それらの船は海岸近くを航行しており攻撃はできなかった。7月4日、スカルピンは41日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 7月25日、スカルピンは8回目の哨戒で東シナ海および台湾海峡方面に向かった。8月9日朝、スカルピンは北緯24度59分 東経122度10分 / 北緯24.983度 東経122.167度 / 24.983; 122.167の地点で、高雄に向かっていたタ702船団を発見し、貨客船浙江丸(大阪商船、3,183トン)を撃沈した。8月16日および17日には台湾海峡において対潜哨戒艇の攻撃を回避する。8月21日には北緯24度40分 東経123度35分 / 北緯24.667度 東経123.583度 / 24.667; 123.583の地点で小型船37隻を引き連れて航行中の貨物船を発見、魚雷3本を発射したがいずれも不発であった。護衛艦が直ちに反撃しスカルピンは潜航を余儀なくされ、爆雷攻撃の間に貨物船は逃走した。同様の魚雷の故障は9月1日にも生じ、魚雷が船体に命中して生じた水煙は確認できたものの、爆発は生じなかった。スカルピンは護衛艦の反撃を避けるべく直ちに離脱した。その後は南鳥島の偵察を行った。9月17日、スカルピンは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。短期オーバーホールのため真珠湾に回航された。艦長がフレッド・コナウェイ中佐(アナポリス1932年組)に代わった。
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