第7、第8の哨戒 1943年3月 - 5月
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「ガジョン (SS-211)」の記事における「第7、第8の哨戒 1943年3月 - 5月」の解説
3月13日、ガジョンは7回目の哨戒でジャワ海方面に向かった。3月22日、ガジョンは南緯06度23分 東経112度43分 / 南緯6.383度 東経112.717度 / -6.383; 112.717のスラバヤ北方で輸送船団を発見。魚雷を2本ずつ3度にわたって発射し、陸軍輸送船明元丸(明治海運、5,448トン)を撃沈して他の2隻の船に損傷を与えたと判断された。翌3月23日朝には南緯05度10分 東経114度04分 / 南緯5.167度 東経114.067度 / -5.167; 114.067の地点で別の輸送船団を発見するも距離が遠くて攻撃できず、3月24日未明にも南緯06度25分 東経113度48分 / 南緯6.417度 東経113.800度 / -6.417; 113.800の地点で駆潜艇に対して砲撃を行ったところ突然反撃され、魚雷を発射したものの命中せず、再び砲撃で応戦したが航空機を発見したため潜航を余儀なくされた。3月29日未明、ガジョンは北緯00度00分00秒 東経118度18分30秒 / 北緯0.00000度 東経118.30833度 / 0.00000; 118.30833の地点に差し掛かった所で、特設給油船東邦丸(飯野海運、9,997トン)を発見する。東邦丸は2門の備砲をもって、浮上したままのガジョンに対して先制攻撃を行い、砲弾はガジョンからわずか50ヤード離れたところに少なくとも2発は落下したと記録された。2時33分、ガジョンは浮上したまま魚雷を3本発射した後、間もなく潜航して様子をうかがった。やがて2本の魚雷が命中して東邦丸は航行不能となるも、沈む気配は見せなかった。1時間後、ガジョンは4本目の魚雷を発射して船橋下に命中させたが、東邦丸の様子はさほど変わらなかった。そこで、二度目の攻撃から約30分後に5本目の魚雷を発射して命中させ、ガジョンが浮上してから15分後に東邦丸は沈没した。ガジョンの手空きの乗組員は艦上に上がって沈み行く東邦丸を見物したが、間もなく別の方向に煙を発見したので全速力で煙に向かっていった。昼過ぎ、北緯00度54分30秒 東経119度01分36秒 / 北緯0.90833度 東経119.02667度 / 0.90833; 119.02667のボルネオ島マンガリハット岬近海で「第一小倉丸(日本油槽船、7,270トン)級タンカー」と判断された目標に対して魚雷を2本発射し、命中音を聴取。しかし、爆雷攻撃を仕掛けてきたため確認はできなかった。ガジョンはこの攻撃で魚雷を使い果たした。4月6日、ガジョンは24日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 4月15日、ガジョンは8回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。南緯02度54分 東経118度31分 / 南緯2.900度 東経118.517度 / -2.900; 118.517の地点を北上中の4月22日には、哨戒艇を発見して全速力で脱出を図る。哨戒艇は発砲してきたものの、ガジョンはこれを振り切った。日付が4月26日に変わった直後、ガジョンは北緯01度48分 東経119度11分 / 北緯1.800度 東経119.183度 / 1.800; 119.183の地点でレーダーにより目標を探知し、魚雷を3本発射して命中を得たと判定。浮上してみると、小型哨戒艇しか見えず、目標は沈んだものと判断された。4月27日深夜、ガジョンは北緯10度17分 東経121度44分 / 北緯10.283度 東経121.733度 / 10.283; 121.733の地点で大型船を発見する。目標はマニラからバリクパパンに向かっていた海軍徴傭船鎌倉丸(日本郵船、17,498トン)であり、17.5ノットで航行していた。日付が4月28日変わって後の1時ごろ、ガジョンは北緯10度25分 東経121度50分 / 北緯10.417度 東経121.833度 / 10.417; 121.833のパナイ島ナソ岬沖で魚雷を4本発射し、3本が命中。鎌倉丸は10分ほどで沈没した。これは、アメリカ潜水艦が撃沈した艦船としては大きいほうの部類だった。4月30日にはパナイ島沿岸に到着し、6名の訓練されたゲリラ要員と3トンの貨物を揚陸させた。5月2日、北緯10度33分 東経121度51分 / 北緯10.550度 東経121.850度 / 10.550; 121.850の地点で武装トロール船を発見し、魚雷を2本発射するも命中せず、爆雷攻撃によって追い払われた。5月4日には、北緯10度10分 東経121度42分 / 北緯10.167度 東経121.700度 / 10.167; 121.700のパナイ島近海で500トン級トロール船を浮上砲戦で撃沈するも、ジョージ・H・ペンランド中尉が反撃の掃射を食らって海中に落ち、そのまま浮き上がってくることはなかった。生存者を救助の上尋問した所、船名は "Naku Maru" ということであった。翌5月5日にも「小型貨客船」を発見し、魚雷を使うまでもないとこれも浮上砲戦で撃沈した。北緯09度29分 東経123度29分 / 北緯9.483度 東経123.483度 / 9.483; 123.483のボホール海峡を通過中の5月8日には、またもや武装トロール船を発見して魚雷を発射するも回避され、砲撃と爆雷攻撃から逃れるため息を潜めざるを得なかった。ガジョンはスリガオ海峡を通過してルソン島東岸部に出て、サンベルナルジノ海峡方面で哨戒を行う。5月12日朝、北緯12度44分 東経124度08分 / 北緯12.733度 東経124.133度 / 12.733; 124.133のサンベルナルジノ海峡東方沖7km地点付近にあるルソン島ブルサン沖の入り江に停泊してカムフラージュをしていた陸軍輸送船すまとら丸(大阪商船、5,863トン)を発見。魚雷1本を命中させ、すまとら丸は放棄されて解体された。攻撃終了後、ガジョンは真珠湾に針路を向けた。5月25日、ガジョンは41日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコに回航され、ハンターズ・ポイント海軍造船所でオーバーホールに入った。
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