第7、第8、第9の哨戒 1944年10月 - 1945年8月
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「ヘイク (潜水艦)」の記事における「第7、第8、第9の哨戒 1944年10月 - 1945年8月」の解説
10月20日、ヘイクは7回目の哨戒でグロウラー (USS Growler, SS-215) 、ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) とウルフパックを構成しルソン島方面に向かった。11月6日、ヘイクは北緯14度15分 東経119度15分 / 北緯14.250度 東経119.250度 / 14.250; 119.250の地点で3隻の「初春型駆逐艦」を発見して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。翌11月7日、ミンドロ島とカラミアン諸島ブスアンガ島の間の海域でグロウラーのレーダーが輸送船団を探知し、ヘイクとハードヘッドに絶好の攻撃ポジションをとるよう指示した。ヘイクとハードヘッドはグロウラーと反対側から浮上状態のまま船団に接近して行き、2時32分、グロウラーはハードヘッドへ「右側から攻撃すべきだ」と指令を出した。ハードヘッドは3時59分に特設運送船(給油)萬栄丸(日東汽船、5,226トン)に魚雷を4本命中させて撃沈するも、直後の4時2分から5時間近く制圧を受け、ヘイクもハードヘッド同様に16時間制圧されて浮上できなかった。潜航中、ヘイクでは得体の知れない爆発音を何度も聴取した。14時55分にハードヘッドが浮上したのに続いて、ヘイクも夜にようやく浮上してハードヘッドと交信した。続いて2隻でグロウラーのいたと思われる付近を潜行したが、何も見つけることはできなかった。グロウラーの捜索は3日にわたって行われたが徒労に終わった。グロウラーは爆雷攻撃で失われた。11月18日、ヘイクはコレヒドール島沖でマニラに向かう軽巡洋艦五十鈴を発見したが、攻撃しそびれた。翌11月19日、ヘイクは北緯14度21分 東経119度37分 / 北緯14.350度 東経119.617度 / 14.350; 119.617の地点でマニラから出てきた五十鈴を発見し、魚雷を6本発射した。五十鈴は事前にジグザグ航行で対潜警戒を行っていたものの、1本が艦尾に命中して操舵室が亡失し舵も吹き飛んでしまった。その後、ヘイクはパナイ島沖での特別任務に派遣される。12月5日、ヘイクは乗機を撃墜された29名のアメリカ軍パイロットを保護していたフィリピンのゲリラと接触し、武器弾薬や食糧と交換にパイロットを収容した。ヘイクはパイロット達を乗せオーストラリアに向かった。12月16日、ヘイクは57日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 1945年1月12日、ヘイクは8回目の哨戒で南シナ海に向かった。2月3日夜、ヘイクは北緯12度54分 東経109度32分 / 北緯12.900度 東経109.533度 / 12.900; 109.533の地点で夜間浮上攻撃を行い、船種不詳の目標に対して魚雷を4本発射したが命中しなかった。2月10日には北緯13度31分 東経109度30分 / 北緯13.517度 東経109.500度 / 13.517; 109.500の地点で病院船氷川丸(日本郵船、11,622トン)を目撃した。3月1日から3月3日まではサイパン島タナパグ港(英語版)に寄港。3月13日、ヘイクは61日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコに回航され、メア・アイランド海軍造船所でオーバーホールに入った。オーバーホールを終えたヘイクは、7月20日に真珠湾を出港してタナパグ港に回航された。 8月8日、ヘイクは9回目の哨戒で日本近海に向かった。ヘイクは第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)搭載機やB-29、P-51などの救助任務を担当し、洋上で終戦を迎えた。日本の降伏後、9月2日に東京湾のミズーリ (USS Missouri, BB-63) 艦上で行われた降伏文書調印式に、12隻の潜水艦の内の1隻として参列した。降伏調印式典参加の後、ヘイクは9月12日に49日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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