第7、第8の哨戒 1944年3月 - 11月
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「スキャンプ (潜水艦)」の記事における「第7、第8の哨戒 1944年3月 - 11月」の解説
3月3日、スキャンプは7回目の哨戒でニューギニア島、ビスマルク諸島を経てパラオ方面に向かった。しかし、TDC(英語版)が故障したため、その修理のため3月29日にランゲマク湾(英語版)に入って3日かけて修理を行い、修理後再出撃した。4月4日に北緯02度52分 東経129度45分 / 北緯2.867度 東経129.750度 / 2.867; 129.750の地点で200トンクラスのトロール船を発見して浮上砲戦で炎上させたが、備砲が故障したため撃沈には至らなかった。このころ、司令部から「ダバオから日本艦隊が出撃してくる」という情報がもたらされた。察知された日本艦隊とは、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の攻撃を避けるべく、トラックからパラオ、さらに燃料を求めてリンガ泊地に向かっていた、栗田健男中将率いる第二艦隊の一部であった。スキャンプは日本艦隊を捕まえるべくダバオ湾(英語版)に向かった。3日後の4月7日、スキャンプはダバオ湾北口でついに日本艦隊を発見した。前日6日にはダーター(USS Darter, SS-227)とデイス(USS Dace, SS-247)が日本艦隊を発見し、奇しくもこれより半年の後に再び栗田中将とあいまみえる2隻のうちデイスが雷撃を行ったが、艦隊は22ノットの高速で航行中だったため命中しなかった。スキャンプは潜航して艦隊に忍び寄ったが、水上機が接近してきたため急ぎ潜航を図る。しかし、間もなく水上機が投下した爆弾がスキャンプの近くで炸裂。衝撃で動力が絶たれ、火災も発生し毒性の煙が充満してきた。スキャンプは釣り合いをうまく保つために水中で何度も上下し、深度46メートルになったところでようやく釣り合いを回復した。スキャンプは油と気泡を放出して17度の角度で21時3分に浮上し、損傷のため哨戒を打ち切って帰投することとなった。スキャンプの護衛にデイスが差し向けられ、4月10日に会合した。スキャンプはデイスの護衛の下、4月16日にマヌス島ゼーアドラー湾に到着し、緊急修理を受けた。4月22日、スキャンプは51日間の行動を終えてミルン湾に帰投。その後、オーバーホールを行った。オーバーホール後の9月22日、スキャンプは駆逐艦チュー(英語版)8USS Chew, DD-106)と衝突する事故を起こした。 10月16日、修理を終えたスキャンプは8回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。10月20日にミッドウェー島で燃料を補給し、その後担当海域に到着。11月9日に硫黄島周辺を航行中に哨戒区域の変更命令を受け取り、スキャンプはこれに対して自艦の位置が「北緯28度44分 東経141度44分 / 北緯28.733度 東経141.733度 / 28.733; 141.733にあり、魚雷24本と77,000ガロン(290,000リットル)の燃料がある」と返信した。11月14日、司令部から北緯35度27分 東経141度35分 / 北緯35.450度 東経141.583度 / 35.450; 141.583の位置にあったスキャンプに対して、房総半島沖で本土空襲の下準備で何度も日本を偵察していたB-29の乗組員救助支援任務に当たるよう命令が下されたが、応答はなかった。その後もスキャンプからの通信は無く、司令部から何度も隣り合う区域の潜水艦などに対しスキャンプの安否を問う通信が送信されたが、芳しい返事はなかった。11月29日に空母信濃を撃沈するアーチャーフィッシュ(USS Archer-fish, SS-311)はスキャンプの担当海域の西隣が担当海域だったが、「スキャンプとは会合および交信せず」と、やはり芳しくない返事を送らざるを得なかった。11月26日まで捜索は続けられたが、ついに打ち切られた。ホリングスワース艦長以下全乗員が死亡と判定され、スキャンプは1945年4月28日に除籍された。 スキャンプは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。
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