第7、第8の哨戒 1945年3月 - 7月
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「セロ (潜水艦)」の記事における「第7、第8の哨戒 1945年3月 - 7月」の解説
3月31日、セロは7回目の哨戒で日本近海に向かった。この時期は日本側には目ぼしい船舶は残っていなかったとはいえ、セロは多くの戦果をあげた。4月19日には北緯31度08分 東経136度59分 / 北緯31.133度 東経136.983度 / 31.133; 136.983の地点で特設監視艇第三五十鈴丸(後藤商店、74トン)を発見し、魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈。4月22日にも北緯31度38分 東経139度00分 / 北緯31.633度 東経139.000度 / 31.633; 139.000の地点で特設監視艇網地丸(辺見安之助、107トン)ともう1隻の特設監視艇を発見し、1本のMk27誘導魚雷(英語版)による攻撃を行ったものの成功せず、浮上しての砲撃で網地丸を撃沈してもう1隻を敗走させた。4月29日7時58分には北緯39度15分 東経144度58分 / 北緯39.250度 東経144.967度 / 39.250; 144.967の釜石湾沖150度24海里の地点でタンカー大修丸(大阪商船、6,925トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本しか命中しなかったが、大修丸は爆発を起こして6分ほどで沈没した。5月4日には北緯39度28分 東経142度04分 / 北緯39.467度 東経142.067度 / 39.467; 142.067の魹ヶ埼灯台183度4.5海里の地点で3隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、輸送船神変丸(藤山海運、884トン)に対して魚雷を2本発射して1本を命中させ、二度目の攻撃でも魚雷を2本発射したが命中しなかった。さらにMk27誘導魚雷を護衛艦に向けて発射したが、これも命中しなかった。それでも最初の攻撃による損傷により神変丸は沈没した。5月6日正午ごろに北緯39度06分 東経141度56分 / 北緯39.100度 東経141.933度 / 39.100; 141.933の地点で発見した中型輸送船に向けて発射された3本の魚雷は命中しなかったが、5月13日には北緯39度07分 東経141度57分 / 北緯39.117度 東経141.950度 / 39.117; 141.950の気仙郡吉浜村沖で輸送船神南丸(拿捕船、1,025トン)を発見して魚雷を3本発射し、1本が命中して撃沈した。5月20日夕刻には北緯37度40分 東経143度12分 / 北緯37.667度 東経143.200度 / 37.667; 143.200の地点でトロール船を発見し、Mk27誘導魚雷を1本発射したが命中しなかった。深夜に入ってから北緯38度06分 東経142度24分 / 北緯38.100度 東経142.400度 / 38.100; 142.400の金華山灯台沖で捕鯨船第五関丸(西大洋漁業、377トン)を発見して魚雷を2本発射し、1本は確実に命中してもう1本も命中と推定され、これを撃沈した。5月27日、セロは56日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。 6月27日、セロは8回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では近日第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)による大規模な空襲が実施される予定なので、主に搭乗員救助と日本側の出方を探る監視役の役目を担った。7月15日、セロは搭乗員3名を救助した後、尻屋埼灯台を艦砲射撃して損害を与えた。3日後の7月18日、セロは北緯45度14分 東経148度41分 / 北緯45.233度 東経148.683度 / 45.233; 148.683の択捉島の沖合いに移動して哨戒していたが、突然天山の爆撃を受けた。セロは深度130メートルにまで避退して爆撃を避けたつもりだったが、それでも被爆した。潜望鏡が使用不可能となり、セロの内部機材やジャイロコンパスが破壊され船体自体もねじれてしまった。セロは任務続行を断念した。7月30日、セロは33日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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