再出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)
初出撃の日、突入した「万朶隊」の4名は全員戦死と思われていたが、後に佐々木が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場(英語版)に生還していたことが判明した。ミンダナオからカローカンに帰ってきた佐々木に、第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。第4航空軍司令部にも出頭し、参謀の美濃部浩次少佐に帰還を報告したが、美濃部は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」と、次回の出撃では確実に体当たりをするようにと即した。天皇に報告した通りに死ななければいけないという不条理に佐々木は憤然としたが、軍司令官の富永は思いのほか優しく、軍司令官室に入って佐々木が敬礼するなり「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と下士官に対しては破格の声をかけて、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を佐々木に手渡した。佐々木は軍司令官から贈り物をもらって光栄な思いを抱きながら司令部から退去した。 11月15日、負傷から復帰した石渡俊行軍曹が隊長となり、前回出撃から漏れた近藤行雄伍長、前回出撃しながら帰還した奥原と佐々木の4機が「万朶隊」第二回目の出撃を命じられたが、初出撃日と違って天候に恵まれず上空に雲が多かった。4機は離陸後に飛行場上空で空中集合して編隊を組んで進撃する予定であったが、初陣の近藤機が自分の位置を見失って墜落、佐々木機と奥原機は雲に遮られて予定の空中集合ができずに再び帰還した。隊長の石渡は単機で進撃したと思われるが、そのまま行方不明となった。のちほど近藤機がニルソン飛行場付近に墜落しているとの連絡があり処理班が駆けつけたが、800kg爆弾の爆発で近藤の遺体もろとも機体は粉々になっており、近くの椰子の木に引っかかっていた千人針の切れ端に残っていた名前で近藤機の残骸であることが確認された。佐々木はこの日に再び特攻に失敗したとされて、戦死公報は取り消され、感状の授与は見送られた。こののち、「万朶隊」初回出撃の戦果によって、11月12日に戦死した田中と生田と久保の3名に感状の授与、さらに一緒に敵艦に突入して戦死した護衛戦闘機隊の渡邊を含めた4名に対して少尉への特進と、特旨による論功行賞が発令されている。 その後の11月25日に3回目の「万朶隊」の出撃がわずかに残っていた奥原、佐々木の2名に命じられたが、出撃直前にアメリカ軍艦載機の空襲を受けて、奥原が爆撃により戦死、両名の九九双軽も撃破されてしまった。負傷により入院中の2名を除けば「万朶隊」は佐々木ただひとりとなってしまい、その後もたったひとりの「万朶隊」に出撃が命じられたが、佐々木はその都度帰還した。帰還を続ける佐々木に猿渡は「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論したなどとも言われ、佐々木が上官の命令に抗ったという主張もあるが、佐々木が所属した第4飛行師団参謀の辻秀雄少佐によれば、最初の出撃で帰還した佐々木への対応について第4飛行師団では判断がつかずに第4航空軍と協議したところ、第4航空軍参謀より「行って、それが命中して効果をあげたんなら、もう1回やらせてもいいんじゃないか」という提案があり、その後も佐々木が帰還を繰り返すと、「もう1回やるんだから、2回でも3回でもやれば、それだけ戦果をあげるんだから、それだけこっちに利があるんじゃないか」「こういう風な状況になったんだから、やむを得ない。彼(佐々木)にいい死に場所を与えようじゃないか」ということで、第4航空軍司令部が佐々木の帰還を容認していた。この第4航空軍の佐々木に対する方針は、司令官の富永の裁量であったとも言われる。 佐々木のほかにも、艦船攻撃任務でアメリカ軍戦闘機に撃墜されたとして2階級特進した飛行第26戦隊の奥林善五郎伍長は、実際は被弾しながらマスバテ島に不時着して九死に一生を得ていたが、富永は一旦戦死を天皇に上申していたのにも関わらず、生還した奥林を温かく迎え入れると「奥林伍長は戦死しなかったが、この富永が10月27日付で改めて軍曹に任命する」と異例扱いの特進を認めて部隊に復帰させている。さらに、前線では貴重品の煙草2箱を褒美として渡し、奥林を感激させている。奥林はこのあとも富永に対して「閣下ともなる人は、なんと優しく親切で、立派な人柄なんだろう」と考えて、尊敬と親しみの気持ちを抱くようになった。 佐々木がそのような第4航空軍の方針を知ることはなかったが、顔見知りとなっていた毎日新聞の報道班員の福湯には「むざむざ死ぬ必要はないでしょう。生きていた方が、それだけ仕事ができるものですからね」と別に悪びれることもなく笑顔で話し、引き続き帰還を繰り返した。12月4日にはたった1機での出撃を命じられ出撃したが、飛行第20戦隊の中隊長有川覚治大尉と佐藤曹長の2機の一式戦闘機「隼」が護衛についた。3機は高度5,000mでレイテ湾に向かっていたが、佐々木は上空にアメリカ軍戦闘機がいるのを発見すると、突入を諦め爆弾を投棄して、護衛の有川らに連絡することもなく一目散に退避した。護衛の有川も、アメリカ軍戦闘機4機編隊の3個合計12機を発見したが、有川は常々、自分が全部敵機の攻撃を背中に受けて特攻機を護ると心に決めており、佐々木の様子を見ようと振り返ると既に退避した後で機影はなかった。特攻機が先に退避し護衛機のみが残された形となり、戦力も態勢も不利な状況で有川も退避しようとしたが、そのときにアメリカ軍戦闘機に上空から攻撃された。有川の機は被弾したかもしくは激しい挙動の反動でエンジンカウルが吹き飛び、エンジンがむき出しとなったが、その後の攻撃はかわして無事に帰還した。佐々木はネグロス島のバコロド飛行場に帰還したが、後日に猿渡から「きさま、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ」と叱責される姿が目撃されている。 佐々木は出撃命令と攻撃の指示を、毎回参謀長の猿渡から直接受け取ったと証言しているが、戦後に第4飛行師団元参謀の辻が事実関係について猿渡に問いただしたところ、「もう、このご時世に、今さら、わしがどうのこうの言ったって、もう、いうだけ野暮だから、言わないことにした」と反論することは諦めたと答えたという。辻は作家の高木俊朗から取材を受けた際に、猿渡が身に覚えがないと言っていることと、「彼(佐々木)の言葉だけで結輪を出さずに、反対の立場の者の意見も聞くべき」と苦言を呈している。高木の著書等では、猿渡は何度も佐々木に特攻による戦死を強要する冷酷な人物のように描かれているが、猿渡は、操縦者からの叩き上げで航空参謀になっており、豊富な経験から操縦者のことをよく理解していたうえ、ノモンハン事件でも前線で航空作戦を指揮するなど実戦経験も深く、フィリピンの戦いにおいては、後日に第4航空軍司令部が台湾に脱出したのちもフィリピンに止まり、前線で自らも手榴弾で負傷しながらも将兵を鼓舞し続け、終戦時には、指揮下の第4飛行師団のみならず、抵抗を続ける第103師団に自ら親書を携えて降伏を促して、生き残っていた2,000名の将兵の命を救ったりしている。永年の軍務で人望も厚く、多くの特攻による戦死者を出した少年航空兵の戦友会日本雄飛会が出版した証言集に寄稿を求められて、「心底に想う」という序文を寄せていたり、日本国内初の動力飛行機の初飛行を行った徳川好敏が代表を務めた航空同人会の副代表として、日本航空史の伝承に尽力している。また、何回も特攻死を強要されて、猿渡に反撥したとされていた佐々木自身も、2015年の鴻上尚史の取材に対しては「それは言う方は当たり前でしょうね」「それは上官だから言いますよ」と淡々と答えている。 「万朶隊」が満足な戦果を挙げることなく壊滅状態となり「富岳隊」も戦果が不明ななかで、陸軍中央は苛立ちを募らせていた。陸軍での特攻開始に深く関与していた参謀本部参謀の田中耕二少佐は、戦後に当時のことを振り返って「海軍の航空隊の戦果は、誠に華々しいものであります。母艦をたくさん沈めているのに、陸軍航空は何もしてないじゃないか。しょっちゅう叱られますので、私はまったく、参謀本部に来てから2年間、毎日針の蓆の上におる思いがしているわけであります」「明快な(戦果の)報告が電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選り抜きの搭乗員をあてがって、何か寂しいような感じを持ちましたですね」と「万朶隊」と「富岳隊」が陸軍からは期待外れであったと回想している。
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再出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 07:36 UTC 版)
7月15日の作戦中止により、手ぶらで根拠地に帰ってきた木村少将への批判は凄まじく、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、果ては連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ」など轟々たる非難を浴びることとなった。ちょうどソロモン方面では6月30日よりニュージョージア島の戦いが生起して、7月6日のクラ湾夜戦と7月12日のコロンバンガラ島沖海戦で、それぞれ第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将と第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が指揮官先頭・率先垂範の規範により旗艦(クラ湾夜戦では秋月型駆逐艦新月、コロンバンガラ島沖海戦では軽巡神通)もろとも戦死した直後であった。この批判は、突入しなかった木村少将の態度から来たものだけではなく、8月になればこの方面の霧が晴れ始めてアメリカ軍の上陸作戦が確実に行われると予想されたこと(つまり、撤収作戦がほぼ不可能になる)、更にこの地域に備蓄していた重油が払底し始めており作戦は後一度きりしか行えないという焦りから来たものでもあった。 しかし、木村少将はこの批判を意に介せず、阿武隈の舷側から釣りをしながら濃霧が発生するのをじっと待った。撤収部隊の各艦は木村少将の判断は当然だと思っており、帰港後に上記の批判を見て驚いたという。 7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出した。同日夜、撤収部隊は幌筵を再出撃した。ただし、この出撃に際して「督戦のため」と称して第五艦隊司令長官河瀬四郎中将以下第五艦隊司令部が多摩(艦長神重徳大佐)に座乗、実行部隊に同行した。Z日(決行日)0830まで同行する。当初は第五艦隊旗艦那智で参加予定であったが、燃料不足により多摩(神重徳大佐)での出撃となった。もし敵艦隊に遭遇した場合は多摩が電信を打って敵艦隊を引きつける手筈であった。 戦闘序列主隊:多摩 巡洋艦部隊:阿武隈、木曾 収容駆逐隊:第十駆逐隊(夕雲、風雲、秋雲)、第九駆逐隊(朝雲、薄雲)、響 第一警戒隊:第二十一駆逐隊(若葉、初霜)、長波 第二警戒隊:島風、五月雨 補給隊:日本丸、国後 この時の作戦では、艦隊はカムチャツカ半島先端の占守島から北太平洋を一挙に南下、そこからアッツ島南方海上まで東に進路を取り、そこで天候を待った後に機を見てキスカ湾へ北東に進路をとり高速で突入、守備隊を迅速に収容した後に再びアッツ島南方海域まで全速で離脱しその後幌筵に帰投する、というルートで行われた。第二期第一次作戦と同様に、北方部隊潜水部隊が哨戒や偵察を担当する。さらに伊2潜水艦は、機を見てアムチトカ島の米軍コンスタンチン飛行場を砲撃するよう命じられていた。 だが7月22日の幌筵出港時から濃霧が発生しており、各艦バラバラでの進撃となってしまった。このため何度か「阿武隈」が高角砲を発砲し音で位置を知らせた。7月25日には国後を除くほとんどの艦艇が集結したものの、翌26日には霧中標的すら見えぬ濃霧の中を航行中に行方不明だった国後が突如阿武隈の左舷方向に出現。避ける間もなく国後は阿武隈の左舷中部に衝突、混乱で初霜の艦首が若葉の右舷に衝突、更に弾みで艦尾が長波の左舷に接触した。損傷が酷かった若葉は艦隊を離脱し単独で帰投した。第二十一駆逐隊司令は若葉から島風に移乗して警戒隊の指揮をとり、初霜は補給隊に配され日本丸の護衛にあたることになった。
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再出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 15:06 UTC 版)
1941年1月22日、艦隊はキールから出撃した。カテガット海峡を通過して北海に出ると2隻は北上した。1月27日4時、ドイツ艦隊はアイスランド北東海上に到着、そこから南西に変針してアイスランド南海上を突破、大西洋に出ようとした。 しかしドイツ艦隊の動きははやくもグレートベルトを通過中に諜報員によって発見されていた。イギリスの海軍本部はドイツ艦隊の大西洋出撃を警戒し、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴェイ大将は戦艦ロドネイ、ネルソン、巡洋戦艦レパルス、巡洋艦8隻と駆逐艦11隻を率いて出撃し、アイスランド南方海上へ向かった。 1月28日にイギリスの軽巡洋艦ナイアドが短時間ドイツの巡洋戦艦を視認したが、リュッチェンスがすぐに艦隊を反転させたためその後英艦隊は触接を失い、スカパ・フローに帰還した。 反転した独艦隊は追撃を警戒して前回よりもさらに北上し、ノルウェー海の真ん中で補給艦アドリア (Adria) から給油を受けた。再突入の準備を整えた2隻は、今度はアイスランド北岸のデンマーク海峡を通過して大西洋に出た。
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