ベルリン作戦とは? わかりやすく解説

ベルリン作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 15:06 UTC 版)

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ベルリン作戦 (Unternehmen Berlin) は第二次世界大戦中、1941年1月から3月にかけてドイツ海軍が行った通商破壊作戦である。参加兵力は戦艦シャルンホルストグナイゼナウの二隻、ギュンター・リュッチェンス中将が指揮した。

作戦劈頭

1940年12月28日、リュッチェンス中将はグナイゼナウを旗艦とし出撃した。だが悪天候により艦が損傷、作戦日程にも遅れを生じたため戦果を上げる事無く帰投することになった。しかし作戦は中止されず、修理後再実行されることになった。

再出撃

1941年1月22日、艦隊はキールから出撃した。カテガット海峡を通過して北海に出ると2隻は北上した。1月27日4時、ドイツ艦隊はアイスランド北東海上に到着、そこから南西に変針してアイスランド南海上を突破、大西洋に出ようとした。

しかしドイツ艦隊の動きははやくもグレートベルトを通過中に諜報員によって発見されていた。イギリスの海軍本部はドイツ艦隊の大西洋出撃を警戒し、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴェイ大将は戦艦ロドネイネルソン、巡洋戦艦レパルス巡洋艦8隻と駆逐艦11隻を率いて出撃し、アイスランド南方海上へ向かった。

1月28日にイギリスの軽巡洋艦ナイアドが短時間ドイツの巡洋戦艦を視認したが、リュッチェンスがすぐに艦隊を反転させたためその後英艦隊は触接を失い、スカパ・フローに帰還した。

反転した独艦隊は追撃を警戒して前回よりもさらに北上し、ノルウェー海の真ん中で補給艦アドリア (Adria) から給油を受けた。再突入の準備を整えた2隻は、今度はアイスランド北岸のデンマーク海峡を通過して大西洋に出た。

HX106船団への攻撃断念

ここで補給艦セレスタ(Schlettstadt)から給油を受けた後、ドイツ艦隊は1月31日HX106船団ノヴァ・スコシアを出発したとの情報を得て、その攻撃に向かった。船団は2月8日に発見された。グナイゼナウとシャルンホルストは南北に別れ船団攻撃を試みた。だが、その船団には戦艦ラミリーズが護衛についていた。シャルンホルスト艦長クルト・ケーザル・ホフマン大佐はラミリーズを発見すると、グナイゼナウが船団を攻撃できるよう自艦を囮としてラミリーズを船団外へ誘引しようと試みた。だが、戦艦の存在を知ったリュッチェンスは攻撃を中止させた。これが、同等の敵との交戦は避けるよう命令されていたためである。

リュッチェンスは敵に存在が知られたと思ったが、実際はラミリーズはシャルンホルストしか発見しておらず、しかも遭遇した敵を重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと報告した。そのためイギリス軍は先に迎撃に失敗したシャルンホルスト、グナイゼナウとは別に、アドミラル・ヒッパーもしくはポケット戦艦アドミラル・シェーアがドイツへの帰還を試みているものだと考えた。

HX106船団から離れた後、2隻はデーヴィス海峡へ向かった。そこで補給艦セレスタとエッソ・ハンブルクから給油を受けた。給油後2隻は南下し、HX111船団の攻撃を試みたが発見できなかった。

ニューファンドランド沖での通商破壊

2月22日ニューファンドランド島沖まで前進していた独艦隊は多数の船舶を発見した。それは英本土よりカナダへ向かう船舶であった。グナイゼナウは3隻、シャルンホルストは1隻を沈めた。さらにグナイゼナウに搭載されていた水上機が貨物船一隻を発見、これを捜索し沈めた。

それから2隻はさらに南下し、アゾレス諸島南方で補給艦エルムラント (Ermland) とブレーメ(Breme)から給油を受けた後アフリカ沿岸へと向かった。

SL67船団

3月7日にSL67船団が発見された。だが、船団には戦艦マレーヤが護衛として付いていた。そのため、HX106船団の時と同様に攻撃は断念された。その代わり、リュッチェンスは船団の情報を報告、Uボートがマレーヤを撃破することを期待した。夜に入りUボートが船団を攻撃し5隻を撃沈した。

3月8日にリュッチェンスは再度船団へ接近を試みたが、マレーヤと遭遇したため攻撃を最終的に断念し、HX船団を目標にして北西に向かった。

3月9日に単独で航行していたギリシャ船マラトン (Marathon) を撃沈。

3月11日、独艦隊は補給艦エルムラントとウッカーマルクと補給のため合流。同日、リュッチェンスは西部方面海軍司令長官アルフレート・ザールヴェヒター上級大将から、HX船団に対する作戦は3月21日までとし、その後は南へ移動するよう命令を受けた。理由はアドミラル・シェーアとアドミラル・ヒッパーがドイツへ本土へ帰還するにあたり、擁護のため陽動作戦を行うためであった。通商破壊戦の期限はすぐに3月17日までに短縮された。

HX114船団

残り少ない時間を有効に活かすべく、リュッチェンスはエルムラントとウッカーマルクも協力させて船団を探索した。3月15日、HX114船団の先頭グループが発見された。グナイゼナウは1隻を沈め3隻のタンカーを拿捕した。シャルンホルストは2隻を沈めた。

続いて翌日には2隻の巡洋戦艦は船団の第2のグループを攻撃し10隻を沈めた。最後の1隻チリアン・リーファー (Chilean Reefer) は反撃してきた。リュッチェンスやグナイゼナウ艦長のファインは、チリアン・リーファーが魚雷を搭載しているのではないかと考え、安全な距離まで離れてチリアン・リーファーを沈めた。そのため多くの弾薬を消費した。

チリアン・リーファーの生存者救助中にグナイゼナウのレーダーが大型艦を捉えた。それはイギリス戦艦ロドネイであった。グナイゼナウはすぐに逃走を開始した。ロドネイもグナイゼナウとウッカーマルクを発見し追跡した。ウッカーマルクが低速だったため両艦は追いつかれてしまったが、ロドネイからの誰何にグナイゼナウはエメラルドと答えた。このトリックはなんとか成功し、グナイゼナウとウッカーマルクは逃走に成功した。

グナイゼナウはシャルンホルストや補給艦と合流し、2隻の戦艦は給油を受けた後フランスのブレストへ向かった。途中空母アーク・ロイヤル搭載機に発見されたが攻撃はなく、シャルンホルストとグナイゼナウは3月22日にブレストに到着した。

結果

2隻は約60日間17800マイルの航海をおこない、合計で22隻11万5622トンを撃沈ないし捕獲した。

参考文献

  • カーユス・ベッカー、『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』、松谷健二 訳、中央公論新社、2001年、ISBN 4-12-003135-7
  • エドウィン・グレイ、『ヒトラーの戦艦』、都島惟男 訳、光人社、2002年、ISBN 4-7698-2341-X
  • M. J. Whitley, German Capital Ships of World War Two, Cassell, 2000, ISBN 0-304-35707-3

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