ダカール沖海戦とは? わかりやすく解説

ダカール沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/14 15:36 UTC 版)

ダカール沖海戦[3](ダカールおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1940年9月下旬、イギリス海軍を主力とする連合国軍と、フランス海軍ヴィシー政権)との間で行われた戦闘[4]。作戦名はメネス作戦[5]Operation Menace[注釈 3]ドゴール将軍が率いる自由フランス軍がイギリス艦隊の支援の下でフランス領西アフリカダカール(現・セネガル)へ上陸しようとしたが[7]ヴィシー軍英語版に拒否されて戦闘になる[8][注釈 4]。 イギリス艦隊は艦砲射撃や空襲をおこなったが、戦艦レゾリューション (HMS Resolution) が潜水艦の雷撃で大破するなどして撃退された。




  1. ^ ダカール駐留海軍司令官[2]
  2. ^ フランス小数艦隊司令官[2]
  3. ^ “威嚇”という意味[6]
  4. ^ ダ市街砲撃[9]【ビーシー二十四日同盟】フランス政府筋の情報によれば英軍はダカール占領の目的を以てダカール西北方のリユフイスク、その他沿岸に數回に亘る敵前上陸を企圖した、なほ電報によればダカール沖のイギリス軍艦は二十三日深更から二十四日朝にかけ八時間に亘り濃霧を冒してダカール市街を砲撃したと云はれる/ 英艦の砲撃【ヴイシー二十三日同盟】フランス政府は英艦隊が二十三日午後二時十五分(地方時間)突如佛領西アフリカの要港ダカールに對し砲撃を開始した旨公表した、尚ほダカール港内には過般フランスから同地に急行した佛巡洋艦三隻、驅逐艦三隻が停泊中である/ 攻撃繼續【ビシー二十三日同盟】佛政府筋の齎すところによると、英艦のダカール港攻撃は二十三日夜八時に至るもなほ猛烈に繼續されその勢力は戰闘艦二隻、巡洋艦四隻及び驅逐艦多數から成る極めて強力なもので四隻の軍隊輸送船を伴つてをり英側は軍隊を上陸せしめダカール港の占領を目的としてゐると云はれる(記事おわり)
  5. ^ アメリカ合衆国ソビエト連邦など世界各国はヴィシー政府を正統なフランスと承認し、イギリスだけが拒絶していた[14]
  6. ^ 姉妹艦ジャン・バールは未完成状態でサン=ナゼールを脱出、カサブランカに移動した[17]
  7. ^ 第一一、敗戰フランスの海軍力[21] 戰前のフランスは主力艦七隻トン數にして一六三,九四五トンを保有してゐた。/ 内譯はクールベ英語版パリ英語版プロヴアンスブルターニユロレーヌ二二,一八九トン型五隻及びダンケルクストラスブール二六,五〇〇トン型二隻である。その外に建造中のものに三五,〇〇〇トン型リシユリユー以下ジャンバールクレマンソーガスコーグの四隻があつた。甲級巡洋艦は七隻、トン數總計七〇,〇〇〇トン、乙級巡洋艦は既成のもの十一隻九,七二九トン、建造中のもの三隻二四,〇〇〇トンを有してゐた。
     その他に航空母艦一隻、水上機母艦一隻建造中の航空母艦二隻を有してゐた外、これ等の軍艦に相應した驅逐艦、潜水艦等の艦艇を有してゐた事は勿論である。要するに英、米、日に次ぐ世界第四位の海軍力を有してゐたのである。
     イタリー海軍力はフランスと大體伯仲してゐたと見ていい。イギリスの地中海艦隊の勢力はイタリー海軍に匹敵するものであつたから地中海に於ては英、佛、伊の三艦隊が均等の勢力を以て鼎立してゐたのであつた。この均等の勢力があつたからこそ、イギリスは地中海のイタリー艦隊を牽制して地中海の制海權を把握し續けたのである。イタリーのエチオピア作戰當時英語版その空軍がイギリス地中海艦隊の頭上を亂舞して、若しイギリスがイタリーの行動に差出がましい態度を執れば、容赦はせぬぞといふ示威を試みたので、遂にイギリス艦隊も恐れをなして逃避し、積極的にエチオピアの作戰の妨碍をなし得なかつたのは、未だ記憶に新らしい事實である。ローマ帝國の再現を夢みてゐる若きファツシヨイタリー参戰後英語版も地中海からイギリス艦隊を追出さねば驥足を伸す事が出來ぬ。そこでイタリーは度々イギリス艦隊に向つて戰を挑んだのであるが、容易にイギリスの牙城を抜き得ず、依然として地中海の制海權はイギリスの手中に存してゐる實状である。
     マジノ線の突破によつてフランスが降伏した當時、フランス艦隊はイギリス艦隊と共同の行動をとり、殆ど無疵に近くまだまだ實力を保有してゐた。
     一國が敗戰の苦敗を嘗めさせられたと國情が騒然として収拾し得なくなるのは、歴史が物語つてゐるところであるが、フランスとてもこの鐵則からのがれることは出來ず、飽迄抗戰を叫ぶ政府が倒れて、新に親獨和平の政府が出來ても、平時と違つて新政府の威令は國内の隅々まで徹底するのは難中の難事であつた。
     殊に完全な實力を持ち、抗戰の意氣に燃えてゐる海軍を納得せしむることは更に困難があつた。こゝにフランス艦隊がどこへ行くかという問題が起きたのは當然である。
  8. ^ ジブラルタルはイギリス海軍のH部隊の根拠地であった。
  9. ^ 第一三、佛艦隊英の手中に落つ[24] 獨佛停戰協定成立の直後七月三日午前主力艦三隻、航空母艦一隻、驅逐艦三隻其他よりなるイギリス艦隊は北阿アルゼリア領のオラン港に停泊中のダンケルク、ストラスブール兩主力艦以下のフランス艦隊に對して降伏又は自沈を勸告した。回答の期間は六時間であつたが、之に先立ちイギリス側は港口に磁氣機雷を敷設し、逃亡を阻止して置いた。拒絶の回答に接したイギリス艦隊は午後五時四十分直ちに砲撃を開始した。チャーチル英首相は四日の下院で「ドイツの手に渡ることを阻止する強硬手段である」と言明してゐる。ドイツ側の宣傳では回答期限を待たずに發砲したと報じその非を難詰してゐる。
     フランス艦隊は港内の足場の惡いところに碇泊してゐた上、イギリスの砲戰開始當時は汽罐の火を落してゐたので、應戰の遑のない中に大打撃を蒙つてしまつたのである。闇打的攻撃の犠牲となつたものは主力艦三隻、航空母艦一隻、驅逐艦二隻、その他數隻である。
     ヴイシー政府はイギリスの不法行爲を知るや否やアレキサンドリア軍港にあつて英艦との共同作戰に從事中だつた主力艦一隻、巡洋艦四隻、八吋砲装備艦三隻外小艦艇數隻に對し「即時アレキサンドリアを脱出して公海に出でよ、場合によつては砲撃しても差支なし」との命令を發したが、優力なイギリス艦隊に立向ふを得ず、拿捕のうへ武装を解除されてしまつた。ダカール港には就役後間もない新鋭の主力艦リシュリュー號が碇泊してゐたが、七月八日英艦並に飛行機の魚雷攻撃を受け大破し艦尾を沈下してしまつた。カサブランカ港でも未完成の主力艦二隻が捕拿された。その他本國にあつて接収されたものは主力艦二隻、輕巡洋艦二隻、潜水艦、驅逐艦等多數に上つた。
     右のやうにフランスの主力艦は八隻の中或は撃沈され、或は武装解除され、或は接収されて滿足に殘つてゐるのは僅かにストラスブール一隻といふ惨めな有様である。
     今までの同盟國からかういふ惨酷な仕打を受けてはフランスとても黙してはゐられない。對英宣戰布告の説さへ出た程であつたが完全にフランスがイギリスを敵に廻し、ドイツと共にヨーロッパの新秩序を建設するに決したのはドイツ外交の成果が現れた極く最近の事である。今後フランスはアフリカ西岸の諸基地を提供し、殘つた海軍力もドイツと協力する事にならうが、早く手を打つてフランス艦隊を潰滅せしめたチャーチル首相は海上の勝利を得たが、フランスを完全にドイツに委ねた點に於て必ずしも上乗の策とは云へまい。さるにてもドイツにとつてフランス艦隊の喪失は惜みても餘りある事に相違ない。
  10. ^ 同時にハーミーズの艦載艇によるコマンド作戦も実施した[28]
  11. ^ ドゴール將軍がダカール遠征[9]【ロンドン二十三日同盟】ロンドンに在るフランス反獨政權主席ドゴール將軍は英軍援助の下に西アフリカの佛領植民地ダカール攻撃を開始したが、英情報省は二十三日右事實を確認し左の如く發表した ドゴール將軍は英軍の援助を得て二十三日早朝ダカールに到着した、其の際佛軍の抵抗に會つた模様であるが事実は未だ明瞭でない。ドゴール將軍の遠征はドイツがダカールを其の支配下に収めんと試みつゝあるとの報道が傳はつた爲め行はれたものである(記事おわり)
  12. ^ 仏海軍は通報艦と呼称する。
  13. ^ ダカール事件 佛政府態度闡明[9]【ヴイシー二十三日同盟】英艦のダカール攻撃事件に關しボードアン外相は英國に對するペタン政府の態度を左の通り闡明した 今回のダカール事件は去る七月三日の英艦に依るオラン港砲撃事件よりも遙かに重大なもので英國今回の行動は單に佛艦艇の獨伊側に接収阻止を目的とするが如き簡單なる問題ではなく佛領アフリカ植民地の接収を狙つてゐるものである、我がフランスは傷ついたりと雖も未だ自己防衛の力を備へて居り斯かる武力攻撃には武力を以て答へるであらう然し乍ら我が政府はダカール事件が英佛間の戰爭に迄發展するとは思惟せず、英國に對して宣戰を布告するが如き事態には至らぬであらう 尚ほ當地消息通は今回の衝突の動因は豫てアフリカ植民地を其の勢力下に収めんと畫策しつつあつたドコール將軍が佛領西アフリカ植民地總督ピエール・ボアツソンにドコール政權への歸属を命じたに對し同總督がこれを拒否した爲めドゴール將軍は英艦に便乘しダカール港砲撃を命じたものであると語つてゐる(記事おわり)

脚注

  1. ^ a b c ナチ占領下のフランス 1994, p. 204b.
  2. ^ a b c d e ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 123.
  3. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、212ページ
  4. ^ ペイヤール、潜水艦戦争 1970, pp. 122a-126ダカール事件 一九四〇年九月二三日~二五日
  5. ^ 福田誠、松代守弘『War history books 第二次大戦作戦名事典  W.W.II operation file 1939~1945』光栄、1999年、ISBN 4-87719-615-3、20ページ
  6. ^ a b c d e f ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 122b.
  7. ^ 英國艦隊突如 ダカール港砲撃 在倫敦佛反獨政權主席ドゴール将軍遠征”. Taihoku Nippō, 1940.09.24. pp. 01. 2024年7月14日閲覧。
  8. ^ a b ナチ占領下のフランス 1994, pp. 204a-205はためくロレーヌ十字
  9. ^ a b c (二面記事)”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 02. 2024年7月14日閲覧。
  10. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 56–57.
  11. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 63ドイツ軍の電撃戦、フランス進攻(1940年5月~6月)
  12. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 61.
  13. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 201a-202フランスの名において
  14. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 201b.
  15. ^ a b ナチ占領下のフランス 1994, pp. 202–204ロンドンのフランス人
  16. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 18.
  17. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 12(ジャン・バール脱出経緯)
  18. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 60–62フランス降伏
  19. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 69–73(2)ヴィシー政権の誕生
  20. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 77–78国土の三分の二が占領された
  21. ^ a b 列強の臨戦態勢 1941, pp. 116–117原本209-211頁(第一一、敗戰フランスの海軍力)
  22. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 117–118原本211-214頁(第一二、佛海軍歸属を繞る爭奪戰)
  23. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 73.
  24. ^ a b c 列強の臨戦態勢 1941, pp. 118–119原本213-215頁(第一三、佛艦隊英の手中に落つ)
  25. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 47(ロレーヌ接収経緯)
  26. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 178a☆フランス☆クルーベ
  27. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 178b☆フランス☆パリ
  28. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 176☆フランス☆リシュリュー
  29. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 47a-48イギリス嫌い
  30. ^ ペタン佛政府 斷乎ダカール防衛 海軍當局戰闘經緯發表”. Taihoku Nippō, 1940.09.25. pp. 01. 2024年7月14日閲覧。
  31. ^ ジブラルタル空襲其後も繼續/ダカール戰況”. Nippu Jiji, 1940.09.25. pp. 04. 2024年7月14日閲覧。
  32. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 124.
  33. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 125.
  34. ^ ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 126.
  35. ^ 英佛聯合軍 ダカール攻略斷念”. Taihoku Nippō, 1940.09.26. pp. 01. 2024年7月14日閲覧。
  36. ^ ダカール攻略戰 モノにならず 英佛聯合軍撤退 / 佛軍の頑強抵抗 米國を憤激失望せしむ”. Nippu Jiji, 1940.09.26. pp. 05. 2024年7月14日閲覧。
  37. ^ 日獨伊三國同盟 伯林で本日正式調印”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 01. 2024年7月14日閲覧。
  38. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 170.



ダカール沖海戦

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ル・マラン (大型駆逐艦)」の記事における「ダカール沖海戦」の解説

フランス降伏後の1940年9月初めヴィシー政府によって第10駆逐隊(この時の編成はル・マラン、ル・ファンタスク 、ローダシュー)は第4巡洋艦戦隊とともにダカール移動命じられた。 そして9月23日自由フランス軍イギリス海軍支援の下でダカール上陸しようとしたダカール沖海戦に遭遇した。この戦いで僚艦ローダシューがオーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア砲撃擱座してしまったが、ル・マランとル・ファンタスクは高速ダカール港を走りながら煙幕展開して巡洋艦守った。ル・マランは周囲降り注ぐ砲弾爆発衝撃によって、蒸気配管から蒸気漏出速力14ノットまで低下した。さらにイギリス海軍空母アーク・ロイヤルから発進した艦載機による数度空襲受けた被害はなかった。午後4時損傷修理された。

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ダカール沖海戦

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ル・ファンタスク (大型駆逐艦)」の記事における「ダカール沖海戦」の解説

フランス降伏後の1940年9月初めヴィシー政府によってル・ファンタスク、ローダシューとル・マランの第10駆逐隊は第4巡洋艦戦隊とともにダカールへの移動命じられた。 そして9月23日自由フランス軍イギリス海軍支援の下でダカール上陸しようとしたダカール沖海戦に遭遇した。この戦いで僚艦ローダシューがオーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア砲撃擱座してしまったが、ル・ファンタスクとル・マランは高速ダカール港を走りながら煙幕展開して巡洋艦守り、さらにイギリス海軍空母アーク・ロイヤルから発進した艦載機による数度空襲撃退した

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ダカール沖海戦

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ローダシュー (大型駆逐艦)」の記事における「ダカール沖海戦」の解説

フランス降伏後の1940年9月初めヴィシー政府によってローダシューとル・ファンタスク、ル・マランの第10駆逐隊は第4巡洋艦戦隊とともにダカールへの移動命じられた。 そして9月23日自由フランス軍イギリス海軍支援の下でダカール上陸しようとしたダカール沖海戦に遭遇した。ローダシューは午後4時30分頃にリュフィスク沖の輸送船団偵察向かったが、そこで3,600mの距離からオーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア砲撃受けたオーストラリアの第2・第3斉射放たれ砲弾艦橋付近に命中し、ローダシューは大きく破壊された。魚雷誘爆左舷大穴開け前部燃料タンクから出火してすぐに艦全体が炎に包まれた。81名が戦死もしくは行方不明となり、総員退艦が命じられた後、放棄されたローダシューはゆっくりと漂流しながらバルニー(英語版)の海岸擱座した。擱座後、ローダシューは2日燃え続けた大破したローダシューは修復不能判断され1940年12月17日除籍された。ローダシューの艦体は同型艦修理用の部品取りとして使われることになり、ダカール曳航する試み1941年3月11日実行された。

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