植民地確保の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 22:43 UTC 版)
休戦後、アフリカ植民地ではカメルーンとフランス領赤道アフリカ(ガボンを除く)が自由フランスに加わった。 1940年7月から11月まで西アフリカ作戦においてヴィシー政権派の部隊と交戦する。だがダカール沖海戦を含む一連の戦いで自由フランスは撃退され、西アフリカ植民地はヴィシー政権に忠誠を誓ったままとなる。 アジア太平洋地域ではニューカレドニアとフランス領ポリネシアおよびニューヘブリディーズ諸島がのちに加わる。フランス領インドシナは名目上はヴィシー政権の支配下とされたが1940年から41年にかけて日本に占領(仏印進駐)され、1945年春には完全に制圧(明号作戦)され、以後日本の敗戦までそのままとなった。 北アメリカでは、サンピエール島・ミクロン島が1941年12月24日に自由フランス海軍のコルベット3隻および大型潜水艦「スルクフ」を含む艦隊の圧力により自由フランスに加わる。 1941年、エチオピアとエリトリアなどのアフリカの角で、イタリア軍と交戦する。その後、レバント方面に向かいフランス委任統治領シリア(現在のシリア・レバノン)でイギリス軍などとともにヴィシー政権軍を攻撃。同年7月12日に成立した停戦協定をもってアンリ・デンツ将軍率いるヴィシー政権軍に勝利したが、捕虜の多くはフランス本土への帰国を希望した。カトルー将軍がレバント高等弁務官に任命される。 1942年6月、北アフリカ戦線ではケーニグ将軍率いる外人部隊を含めた第1自由フランス旅団がビル・ハケイムの戦いで敢闘の末撤退する。同年11月には連合国軍の上陸作戦(トーチ作戦)が実施され、フランソワ・ダルラン元帥率いる現地のヴィシー軍はほぼ全てが降伏しアンリ・ジロー将軍率いる自由フランス軍と合流した。一時はダルランがアフリカ植民地全域を支配し、自由フランスの主導権も握りかねない情勢だったが、12月にダルランが暗殺されると権力はジロー、そしてド・ゴールへと移っていった。 1942年後半のマダガスカルの戦いののち、ルージョンティオム将軍がマダガスカル高等弁務官に任命される。12月28日にフランス領ソマリランド(ジブチ)のヴィシー政権軍が降伏する。 西インド諸島(フランス領ギアナも同様)のグアドループとマルティニークは、1943年に自由フランスに加わる。これにより1940年以来同地に抑留されていた空母「ベアルン」以下の艦艇が自由フランス海軍に加わった。 1943年11月にイギリスから兵器供与をうけて8個師団の再編成を開始、これにより従来の自由フランス軍と旧ヴィシー政権軍が合併される。 1943年にフィリップ・ルクレール大佐とカミーユ・ドルナノ中佐はチャドから16,500人の部隊を率いて南リビアのイタリア軍を攻撃しフェザーンにあるクフラを占領した。 1943年秋からはイタリア戦線にも参加。イタリア降伏後の混乱をついて10月にはコルシカ島を奪還した。
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