植民地経営の苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 17:45 UTC 版)
「ウィリアム・ペン」の記事における「植民地経営の苦難」の解説
ペンシルベニア経営は順調に進んだように見えたが、まもなく危機に遭遇した。本国イングランドでは1683年にシドニーがライハウス陰謀事件の犯人として処刑、ペンシルベニアでも隣のメリーランド植民地との境界紛争がメリーランド側のニューキャッスル近辺の不法占拠にエスカレート、総督のボルチモア男爵チャールズ・カルバートが紛争について報告するためイングランドへ向かったと知るやペンも後を追うようにイングランドへ帰国、1684年10月に到着した。家族と再会を喜んだのも束の間で、翌1685年にチャールズ2世が死去、ヨーク公がジェームズ2世に即位、ペンはジェームズ2世と知己のため、カトリック教徒の彼の下でイングランドにおける信教の自由を期待して国王に接近した。 ジェームズ2世の調停で境界紛争が一段落すると、クエーカーら宗教迫害を受けた人々の恩赦の獲得に尽力、1686年にジェームズ2世がクエーカーらを釈放した大赦令発布にペンの影響があったという。同年にオランダ・ドイツを宣教のため訪れ、信教の自由実現のためジェームズ2世の寛容政策を支持、1687年の信仰自由宣言(英語版)発布に感謝するまでになった。一方、ジェームズ2世の強硬な姿勢には懸念を示し、議会選挙に影響力を持つ地方の統監・治安判事を交代させたことや、信仰自由宣言に抗議した7人の主教を投獄したことに失望している。 ところが、1688年に名誉革命が起こりジェームズ2世がフランスへ亡命、ウィリアム3世・メアリー2世が即位するとペンの立場は悪化した。1689年2月から1691年1月にかけてジェームズ2世との交友を理由に3度逮捕・投獄される羽目に陥ったのである。加えて、1693年3月にペンシルベニアの領有権も取り上げられて国王直轄地へと変えられ、アイルランドのシャンガリーも没収され苦境に立たされた。宮廷に残っていた友人たちの尽力で1694年8月にペンシルベニア領有権は返還されたが、条件としてペンシルベニアの軍事力保持を突き付けられた。現地のクエーカーが答えを曖昧にして問題先送りにする中で、グリエルマが1694年2月に死去、1696年3月にクエーカーのハンナ・キャローヒル(英語版)と再婚した後に長男スプリンゲットに先立たれる不幸に遭っている。そうした中で著述活動に向けて1693年に『ヨーロッパの現在と未来の平和に向けて』と『孤独の果実』を出版している。 次男ウィリアム(英語版)の結婚とイングランド残留などの処理を済ませた後、ペンは1699年9月にアメリカを15年ぶりにもう一度訪れた。12月に到着したペンシルベニアは発展を遂げ、ペンは行く先々で役人や住民から歓迎を受け、1700年の春にバックス郡のフォールズにあるペンズベリー・マナーで暮らした。フィラデルフィアはこの間、アメリカの全イングランド植民地を連邦化する計画を推し進めた。奴隷制と闘ったとも言われるが、自分が奴隷を所有し取引しているので、そのようなことはなかったようである。しかし、奴隷の処遇を向上させ、他にペンシルベニアのクエーカーが初期の奴隷制反対運動に加わった。 1700年1月に家族の中の唯一の「アメリカ人」として、ハンナとの間に三男ジョン(英語版)が誕生、先立つ1699年11月、イングランドに残った次男のウィリアム夫妻にも孫娘グリエルマ・マリアが誕生した。ペンとハンナとの間には他にもトマス(英語版)、ハンナ、マーガレット、デニス、リチャード(英語版)など多くの子が産まれた。息子夫婦にもスプリンゲット(英語版)、ウィリアムが誕生している。 ペンはフィラデルフィアに定住したいと願ったが、金銭問題と再びペンシルベニアを含むアメリカの植民地が直轄領にされるという問題がイングランドで持ち上がったため、1701年11月に帰国を余儀なくされた。出発直前にペンシルベニア住民が将来における自分たちの権利を守るため、憲法の改定をペンに要求、9月に新憲法である特権憲章(Charter of Privileges)を作成し大幅な自治権を与えた。イングランドでは植民地を直轄領にする法案の成立阻止に何とか成功したが、ウィリアムの不品行やペンシルベニアから伝えられる住民と総督代理の不和に悩まされた。 1708年、ペンに災難が降りかかった。ブリストルでペンの代理人を務め投資顧問であったフィリップ・フォードの遺族から債務不履行で訴えられ、裁判にかけられたのである。ペンシルベニアを失いかける危機に立たされた次の3年間は、主としてフォード家との法廷闘争に明け暮れ、一件落着したのも束の間で1712年に中風の発作に倒れ、以後は話すことも自分の面倒を見ることもできなくなった。 6年間闘病生活を送った後、1718年に73歳で亡くなり、イングランド・バッキンガムシャーのチャルフォントのジョーダンズ村クエーカー集会所の墓地で、最初の妻グリエルマの隣に葬られた。家族はアメリカ独立戦争までペンシルベニアの所有権を持ち続けた。 有名な自由の鐘は、もともと1751年に特権憲章成立50周年を記念して製造されたものである。
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