植民地行政官としてのキャリア
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「ユベール・デシャン」の記事における「植民地行政官としてのキャリア」の解説
ユベール・デシャンは1926年にマダガスカルの植民地行政官の任務を与えられた。デシャンは赴任後から1936年まで、タナナリヴ、マナカラ、アンブヴンベ、ヴァンガインヂャヌといったマダガスカルの各地で行政官を務めた。1935年にはバタヴィアで開催される植民地博覧会におけるマダガスカル館の監督を任された。また、その際にバリ島にも訪れた。デシャンが東南アジアから戻ると、当時のマダガスカル総督レオン・セラはデシャンを特別秘書官に任命した。デシャンはフランス社会党の党員であったため、1936年7月4日に閣僚会議議長レオン・ブルムの補佐官長に就任した。 1938年3月には、植民地大臣マリウス・ムト Marius Moutet の首席補佐官になり、同年5月にはマルティニークの総督に任命された。 1938年5月30日から1940年8月3日まで、デシャンはフランス領ソマリ植民地(現在のジブチ)の総督に任命され、当地の行政官らをまとめ上げた。ドイツによるフランス占領に際しては、ヴィシー政権についていくことを決め、1941年から1942年までフランス領象牙海岸植民地(現在のコートジボワール)の総督を務めた。1941年にデシャンは同地で原住民研究所 Centre d’études indigènes を創設し、アフリカの芸術・工芸を展示する博物館も作った。1942年になるとデシャンは自由フランス側に再参入し、1942年から1943年までセネガル総督に任命された。 1945年に公職追放あるいは自身の申し出により、デシャンは公務を中止し、パリのプラス・サンシュルピスにアフリカ美術を扱うギャラリーを開設した。当ギャラリーは「パルメ」Palmes と名付けられ、図書館も併設された。またデシャンは、フランス国立海外領学院 l’École nationale de la France d'outre-mer とフランス国立政治学協会 la Fondation nationale des sciences politiques で講義を行った。1950年には大統領令により、デシャンと公務との関係が通常の辞職と同じように扱われることになった。 デシャンは1948年にフランス国立海外領土科学的発見及び技術開発研究所 l'Office de la recherche scientifique et technique outre-mer (ORSTOM) に入所し、人文学学科長に就任し、その後には海外領土社会研究特別顧問にも就任した。 1954年6月には、ピエール・マンデス=フランス内閣下で海外領土問題を担当したロジェ・デュヴォ Roger Duveau 大臣の補佐官として入閣した。
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