植民地紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:59 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「植民地紛争」の解説
17世紀初めの3分の1におけるスパニッシュ・メインの都市の多くは自立していたが、繁栄しているものは少なかった。ジャマイカやイスパニョーラ島の後方にある開拓地は主に、船舶が食料と清水を入手する場所だった。スペイン領トリニダードは密貿易が盛んなままであり、ヨーロッパ製品が豊富にあってかなり安く、タバコや砂糖についてはヨーロッパ商人が良い価格で購入した。 1623年に設立されたセントキッツとネイビスのイギリス植民地は、すぐに砂糖を生産する裕福な開拓地になることが分かった。スペイン帝国の懐深く、ニカラグアのマラリアに苦しめられたモスキート海岸沖にあるプロビデンス島に作られた新しいイングランド植民地は、スパニッシュ・メインを襲うイングランドの私掠船や他国の海賊の主要基地になった。 イングランドとフランスが分け合ったセントクリストフ島(イギリス人はセントキッツと呼んだ)では、フランスが優勢になった。セントクリストフ島のフランス人開拓者は大半がカトリックであり、一方イスパニョーラ島北西部(現在のハイチ)における承認されていないが成長しているフランス植民地は大半がフランス人プロテスタントであり、母国でのカトリックからの迫害を逃れて、スペインの許可無しにそこに住み着いていた。フランスは問題の多いユグノーについて起こることにはほとんど関心を示さなかったが、イスパニョーラ島西部の植民地化はフランスにとってその宗教的少数派を取り除くことと、スペインに対して打撃を与えることであり、フランス王室の観点からは優れた取引だった。大望あるユグノーはイスパニョーラ島北西部海岸沖のトルトゥーガ島も領有権を主張し、その島自体にプティゴアーブの開拓地を設立した。特にトルトゥーガ島は海賊と私掠船の避難所となり、あらゆる国の密貿易者から好まれた。開拓地の設立そのものが違法であったにも拘わらずのことだった。 カリブ海のオランダ植民地は17世紀中の3分の1までは稀なことだった。バハマとフロリダの伝統的な私掠船本拠地と共に、オランダ西インド会社は1626年に北アメリカ本土のニューアムステルダムに、1634年にはキュラソー島に「工場」(商業町)を設立した。キュラソーはベネズエラの北海岸沖、カリブ海のまさに中心に位置する島であり、海上の交差点になるべく位置にあった。
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