植民地省政務次官と英領南アフリカとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 植民地省政務次官と英領南アフリカの意味・解説 

植民地省政務次官と英領南アフリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「植民地省政務次官と英領南アフリカ」の解説

1905年12月関税問題閣内不一致となったバルフォア内閣総辞職し自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマン大命降下があり、自由党政権発足したこの内閣にチャーチルは自ら希望して植民地省政務次官英語版)として参加した1906年解散総選挙 キャンベル=バナマン少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも解散総選挙打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチル保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党移ったのです」と反論し笑いとったり自由貿易支持訴えて支持広げて当選した。 この総選挙全国的に自由党圧勝終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党自由統一党157議席激減した自由党一気377議席獲得し自由党友党アイルランド国民党83議席獲得した自由党としては1886年以来安定政権作ることが可能となった選挙であった最大勝因自由党候補たちの自由貿易支持主張である。前述したように、庶民食品値段上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙はじめから自由党有利だった」と分析している。 植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土イギリス領となった南アフリカ問題あたった。前保守党政権ボーア人強圧的支配下置こうとしたが、チャーチルボーア人イギリス人協力して成り立つ自治政府樹立目指し英語とオランダ語併用、またボーア人イギリス人問わず100ポンド上の財産を持つ成年男子選挙権認めた一方で先住民黒人無視され人種隔離政策推進された。 中国人移民労働者問題 また、南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に63000人もの中国人移民労働者清か南アフリカ鉱山労働者として輸送されてきていたが、これはイギリス禁止している「奴隷貿易」に該当するのではという問題があった。1906年総選挙でも争点になって自由党候補一部中国人奴隷虐待されている姿を描いたポスター使用していた。チャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約南アフリカ鉱山働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁していた。またケープ植民地総督アルフレッド・ミルナー中国人労働者対す鞭打ち許可したことが判明し批判動議提出されチャーチル自由党議員結束させ否決成功したが、批判熱は収まらず、さらにつめ込まれ中国人たちが同性愛をしている可能性について疑惑出され紛糾したチャーチルは「中国人を顔だけで稚児(カタマイト)かどうか見分けるのは難しい」と答弁したが、この「稚児」という言葉議会では議事録別の単語記入されたり、貴婦人退席するなど異常な反応をとった。結局植民地省1906年11月中国人労働者輸入停止させた。その後、この問題の処理は1907年より設置されトランスヴァール植民地自治政府英語版)に委ねられることになり、同政府決定中国人労働者新規移民禁止され移民認められなかった者は契約期間満了次第、清へ強制送還された。 英領東アフリカ視察旅行 1907年チャーチル植民地大臣エルギン伯爵許可得てイギリス領東アフリカ視察旅行出てマルタ島キプロス島スエズ運河通過して10月モンバサ到着しナイロビからウガンダ入りヴィクトリア湖アルバート湖を繋ぐ鉄道建設予定地を通った当時東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地イギリス人たちは現地に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配偉大さ再確認したという。当時11歳ブガンダ王ダウディ・チュワ2世引見も受け、チャーチルはその気品気後れしてイエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチル紳士的に歓迎しチャーチルの方もアフリカ人気に入ったようだったチャーチルアフリカ風景美しさ魅了され、『ストランド・マガジン』に寄稿したアフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している。狩猟も楽しみ、サイイボイノシシ仕留めたライオン狙ったが、成功しなかったという。また鉄道完成すればウガンダランカシャーの綿産業原料供給地となるが、開発が進むとともに白人インド人黒人との間に摩擦増えるという懸念書いている。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 1907年シロサイ仕留めたチャーチル 1907年、車が泥濘はまって動かなくなり立ち往生するチャーチル1907年、「戦の踊り」を見学するチャーチルブガンダ王ダウディ・チュワ2世英語版

※この「植民地省政務次官と英領南アフリカ」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「植民地省政務次官と英領南アフリカ」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「植民地省政務次官と英領南アフリカ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「植民地省政務次官と英領南アフリカ」の関連用語

植民地省政務次官と英領南アフリカのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



植民地省政務次官と英領南アフリカのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのウィンストン・チャーチル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS