ケープ植民地とは? わかりやすく解説

ケープ‐しょくみんち【ケープ植民地】

読み方:けーぷしょくみんち

アフリカ南端にあった植民地1652年オランダ植民地とし、1814年にはイギリス領有1910年南アフリカ連邦結成により、その一州となる。


ケープ植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 14:39 UTC 版)

ケープ植民地
Cape Colony(英語)
Kaapkolonie(オランダ語)
1795年 - 1910年
(国旗) (国章)
国の標語: Spes Bona
ラテン語: 希望
国歌: God Save the King(英語)
国王陛下万歳
公用語 英語オランダ語[1]
首都 ケープタウン
国王
1795年 - 1820年 ジョージ3世
1901年 - 1910年エドワード7世
総督
1797年 - 1798年ジョージ・マカートニー
1901年 - 1910年ウォルター・ヘリー=ハッチンソン英語版
面積
1910年569,020km²
人口
1910年2,564,925人
変遷
アフリカ分割 1795年
オランダ植民地1803年 - 1806年
ロンドン条約によりイギリスへ譲渡1814年
南アフリカ連邦へ併合1910年
通貨スターリング・ポンド
現在 南アフリカ共和国
  1. ^ オランダ語が公用語であったのは1806年まで。
テーブル湾に上陸するヤン・ファン・リーベック

ケープ植民地(ケープしょくみんち、英語: Cape Colonyオランダ語アフリカーンス語: Kaapkolonie)は、かつてオランダ東インド会社が設立した、南アフリカにあった植民地ケープタウンを中心に発展し、1795年にイギリス領植民地となった。

歴史

南アフリカにおいて、オランダは最初のヨーロッパ人植者になろうと計画していた。なお、彼らの行動は、後世においてアフリカ大陸へのヨーロッパ列強侵攻を広範にもたらす結果となった。

オランダ人による最初のケープ定住は、1652年オランダ東インド会社(以下、会社と略)が、本国と東インド諸島(現・インドネシア)や日本長崎出島間を往復するオランダ艦船の補給基地及び停泊地としたことで始まった。同年4月6日、3隻の艦船を率いた司令官ヤン・ファン・リーベックが、のちのケープタウンとなる地に足を踏み入れたのである。補給所は次第に定住者コミュニティーとなり、南アフリカの白人層を構成するアフリカーナーらの祖先となった。

元々地元で暮らしていたコイコイ人は、強い政治組織も経済基盤も持っていなかった。彼らはオランダ船と自由に家畜物々交換していた。会社の社員がケープ停泊地へ食料を供給するための農場をつくると、彼らはコイコイ人らを迫害し始めた。この対立はヨーロッパ人の地主らの統合・整理を推し進め、コイコイ人社会は崩壊した。1670年代軍事的成功が、オランダのコイコイ人に対する管理の強化をもたらした。コイコイ人は、植民地の雇われ労働者の主要供給源となったのである。

植民地は奴隷も輸入した。奴隷制度は、突然現れ表面的には白人のアフリカーナーとその他人種との間の関係のため調和となった。自由民であろうとなかろうと、有色人種はすぐに奴隷たちと同一視された。

最初の定住者たちが会社の補給地周囲に広がった後、遊牧を行う白人家畜農家やトレックボーア(en:Trekboer、荷車で移動するアフリカーナー)たちは、さらに広範に遠く離れ、限られた者は裕福になり、内部の乾燥した台地の代わりに沿岸の土地で農業をした。彼らは良質な牧草地を求め、コイコイ人の家畜農家らといまだに競い合っていた。1700年頃、伝統的なコイコイ人の牧畜生活様式は消滅した。

この時代のケープ植民地社会は多様なものだった。会社の官吏たち(オランダ改革派教会聖職者も含む)、アフリカーナー(移住した植民者と遊牧するトレックボーア)らは会社の中で相対する立場から別々に成長していった。コイコイ人と、様々な国籍の奴隷たちは、全て違った法で統治されていた。異なった人種間の結婚と、主人と奴隷の同棲が生じ、混血が進んだことで、複雑性を加えた。入植者の言語である新たにできあがったケープ特有のアフリカーンス語の出現は、オランダ人にはわかりやすく、オランダ移民自身が文化の変容過程でこの言葉を受け入れていったことがわかる。1795年以降のイギリス支配で、近代南アフリカが宣言した人種隔離政策であるアパルトヘイトの基本となった社会政治体制が、確固として据えられた。

1795年、フランス革命軍が、オランダ東インド会社の母国ネーデルラント共和国占領した。この事態に機敏に動いたイギリスが、オランダ東インド会社の所有する領土を占領した。ケープ植民地は、フランスがインドで領土を獲得しようとするどのような潜在的な試みも止められる、シーレーンを管理するのに適した地点にあったからである。1798年、オランダ東インド会社はその領土と権利とをバタヴィア共和国(革命軍占領下のオランダ国家)へ移管、そして翌1799年、会社は消滅した。イギリスとフランス第一帝政・フランスの傀儡国家バタヴィア共和国との関係が改善されると、1803年アミアンの和約によってケープ植民地はバタヴィアへ返還された。

1806年、名目上バタヴィア共和国の管理下にあったケープ植民地は、ブラーウベルグの戦い(en:Battle of Blaauwberg)で勝利したイギリスによって再征服された。同時期のイギリスとフランス第一帝政間の和平はあからさまな敵意によって粉々に打ち砕かれた。ナポレオン・ボナパルトはバタヴィアへの影響力を強めてきていたのである。同年にナポレオンはバタヴィアを廃止し、新たにホラント王国を創設する。イギリスは、ナポレオンをケープ植民地から閉め出すことと、極東への交易路を手中に置くことを望んでいた。

イギリスは、1806年1月8日にイギリス領植民地を発足させた。ケープ植民地は、1910年南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国の前身)が発足するまでイギリス支配下に留め置かれた。連邦に含まれてから、名称はケープ・オブ・グッド・ホープ州(通称であるケープ州の名が広く知られた)とされた。

ケープ植民地総督(1652年-1910年)

ケープ植民地創設者ヤン・ファン・リーベックen:Jan van Riebeeck)の称号は、ケープ植民地司令官(Opperhoof)で、彼は1652年から1662年までその地位にあった。総督の称号は、当時権力を持っていたオランダ、そしてイギリス両国の植民地行政管理官に継承され、長い系譜が残った。

ケープ植民地総督

  • ヤン・ファン・リーベック (1652年 - 1662年)
  • ツァハリアス・ヴァグナーen:Zacharias Wagenaer) (1662年 - 1666年)
  • コルネリス・ファン・クアルベルフ(Cornelis van Quaelberg) (1666年 - 1668年)
  • ヤコブ・ボルフホルスト(Jacob Borghorst) (1668年 - 1670年)
  • ピーテル・ハキウス(Pieter Hackius) (1670年 - 1671年)
  • アルベルト・ファン・ブレウヘル(Albert van Breugel、臨時代理)(1672年)
  • イスブラント・ホスケ(Isbrand Goske) (1672年 - 1676年)
  • ヨハン・バクス・ディト・ファン・ヘレンタルス(Johan Bax dit van Herenthals) (1676年 - 1678年)
  • ヘンドリック・クルドップ(Hendrik Crudop、臨時代理) (1678年 - 1679年)
  • シモン・ファン・デル・ステル(nl:Simon van der Stel) (1679年 - 1691年)

オランダ東インド会社植民地総督(1691年-1795年)

  • シモン・ファン・デル・ステル(再任:1691年 - 1699年)
  • ヴィレム・アドリアーン・ファン・デル・ステル(en:Willem Adriaan van der Stel) (1699年 - 1707年)
  • ヨハンネス・コルネリス・ダルブレインフ(Johannes Cornelis d’Ableing、臨時代理)(1707年 - 1708年)
  • ルイス・ファン・アッセンブルフ(Louis van Assenburg)(1708年 - 1711年)
  • ヴィレム・ヘロト(Willem Helot、臨時代理)(1711年 - 1714年)
  • マウリッツ・パスケス・デ・シャヴォンネス(Maurits Pasques de Chavonnes)(1714年 - 1724年)
  • ヤン・デ・ラ・フォンタイネ(Jan de la Fontaine、臨時代理)(1724年 - 1727年)
  • ピーテル・ヒイスベルト・ノート(Pieter Gijsbert Noodt) (1727年 - 1729年),
  • ヤン・デ・ラ・フォンタイネ(臨時代理)(1729年 - 1737年)
  • ヤン・デ・ラ・フォンタイネ(1737年)
  • アドリアーン・ファン・ケルフェル(Adriaan van Kervel) (1737年) (在職3週間で急死)
  • ダニエル・ファン・デン・ヘンフェル(Daniël van den Henghel、臨時代理)(1737年 - 1739年)
  • ヘンドリック・スフェレンフレベル(nl:Hendrik Swellengrebel) (April 14, 1739 - February 27, 1751)
  • リーク・トゥルバフ(en:Ryk Tulbagh) (February 27, 1751 - August 11, 1771)
  • ヨアキム・ファン・プラッテンベルフ(en:Joachim van Plettenberg) (臨時代理) (August 11, 1771 - May 18, 1774)
  • ヨアキム・ファン・プラッテンベルフ(May 18, 1774 - February 14, 1785)
  • コルネリス・ヤコブ・ファン・デ・グラーフ(Cornelis Jacob van de Graaff) (1785年 - 1791年)
  • ヨハンネス・イザーク・レニウス(Johannes Izaac Rhenius、臨時代理) (1791年 - 1792年)
  • セバスティアーン・コルネリス・ネーダーブルフ(Sebastiaan Cornelis Nederburgh)とシモン・ヘンドリック・フリーケニウス(Simon Hendrik Frijkenius、行政長官兼将軍)(1792年 - 1793年)
  • アブラハム・ヨシアス・スルイスケン(Abraham Josias Sluysken) (1793年 - 1795年)

イギリス植民地第一期(1797年-1803年)

バタヴィア共和国領(1803年-1806年)

  • ヤコブ・アブラハム・ウイテンハーヘ・デ・ミスト(Jacob Abraham Uitenhage de Mist) (1803年 - 1804年)
  • ヤン・ヴィレム・ヤンセンス(en:Jan Willem Janssens) (1803年 - 1806年)

イギリス植民地第二期(1806年-1910年)

  • デイヴィッド・ベアード(en:Sir David Baird) (臨時代理) (1806年 - 1807年)
  • ヘンリー・ジョージ・グレイ(Henry George Grey) (一回目、臨時代理) (1807年)
  • 2代ケイルドン伯デュ・プレ・アレクサンダー(en:Du Pre Alexander, 2nd Earl of Caledon) (1807年 - 1811年)
  • ヘンリー・ジョージ・グレイ (二回目、臨時代理)(1811年)
  • ジョン・フランシス・クラドック(en:Sir John Francis Cradock) (1811年 - 1814年)
  • ロバート・ミード(Robert Meade、クラドックの臨時代理を務める)(1813年 - 1814年)
  • チャールズ・ヘンリー・サマセット(Charles Somerset) (1814年 - 1826年)
  • ルフェイン・ショウ・ドンキン(Sir Rufane Shaw Donkin) (サマセットの臨時代理を務める) (1820年 - 1821年)
  • リチャード・ボーク(en:Richard Bourke、臨時代理)(1826年 - 1828年)
  • ガルブレイス・ロウリー・コール(Sir Galbraith Lowry Cole) (1828年 - 1833年)
  • トーマス・フランシス・ウェイド(en:Thomas Francis Wade、ダーバンの臨時代理を1834年1月10日から務める) (1833年 - 1834年)
  • ベンジャミン・ダーバン(en:Benjamin d'Urban) (1834年 - 1838年)
  • ジョージ・トーマス・ネイピア(Sir George Thomas Napier) (1838年 - 1844年)
  • ペリグリン・メイトランド(Sir Peregrine Maitland) (1844年 - 1847年)
  • ヘンリー・ポッテンガー(Sir Henry Pottinger) (1847年)
  • ハリー・スミスSir Harry Smith) (1847年 - 1852年)
  • ジョージ・カスカート(en:George Cathcart) (1852 - 1854)
  • チャールズ・ヘンリー・ダーリング(en:Charles Henry Darling、臨時代理)(1854年)
  • ジョージ・エドワード・グレイ(Sir George Grey) (1854年 - 1861年)
  • ロバート・ヘンリー・ウィンヤード(en:Robert Henry Wynyard、一回目、グレイの臨時代理) (1859年 - 1860年)
  • ロバート・ヘンリー・ウィンヤード(二度目、臨時代理)(1861年 - 1862年)
  • フィリップ・エドモンド・ウォドハウス(Sir Philip Edmond Wodehouse) (1862年 - 1870年)
  • チャールズ・クラウファード・ヘイ(Charles Craufurd Hay、臨時代理)(1870年)
  • ヘンリー・バークリー(Sir Henry Barkly) (1870年 - 1877年)
  • ヘンリー・バートル・フレア(en:Henry Bartle Frere) (1877年 - 1880年)
  • ヘンリー・ヒュー・クリフォード(en:Henry Hugh Clifford、臨時代理)(1880年)
  • ジョージ・クミン・ストラハン(Sir George Cumine Strahan、臨時代理) (1880年 - 1881年)
  • ハークルス・ロビンソン(Hercules Robinson、一回目)(1881年 - 1889年)
  • レスター・スマイス(Leicester Smyth|Sir Leicester Smyth、一回目、ロビンソンの臨時代理)(1881年)
  • レスター・スマイス(二回目、ロビンソンの臨時代理)(1883年 - 1884年)
  • ヘンリー・ドイリー・トレンス(Henry D'Oyley Torrens、ロビンソンの臨時代理)(1886年)
  • ヘンリー・オーガスタス・スマイス(Henry Augustus Smyth、臨時代理)(1889年)
  • ヘンリー・ブロウガム・ロック(Henry Brougham Loch) (1889年 – 1895年)
  • ウィリアム・ゴードン・キャメロン(Sir William Gordon Cameron、一回目、ロックの臨時代理)(1891年 - 1892年)
  • ウィリアム・ゴードン・キャメロン(二回目、ロックの臨時代理)(1894年)
  • ハークルス・ロビンソン(二回目) (1895年 - 1897年)
  • ウィリアム・ハウリー・グッドイナフ(William Howley Goodenough、臨時代理) (1897年)
  • アルフレッド・ミルナーAlfred Milner) (1897年 - 1901年)
  • ウィリアム・フランシス・バトラー(Sir William Francis Butler、ミルナーの臨時代理)(1898年 - 1899年)
  • ウォルター・ヘリー=ハッチンソン(Walter Hely-Hutchinson) (1901年 - 1910年)
  • ヘンリー・ジェンナー・スコベル(Sir Henry Jenner Scobell、ヘリー=ハッチンソンの臨時代理)(1909年)

南アフリカの高等行政官職は、1847年1月27日から1910年5月31日までケープ植民地総督が兼任した。なお、南アフリカ連邦合併により、ケープ植民地総督職は、1910年5月31日をもって廃止された。

ケープ植民地首相

  • ジョン・チャールズ・モルテノ(en:John Charles Molteno) (1872年 - 1878年)
  • ジョン・ゴードン・スプリッグ(Sir John Gordon Sprigg、一回目)(1878年 - 1881年)
  • トーマス・チャールズ・スカンレン(en:Thomas Charles Scanlen )(1881年 - 1884年)
  • トーマス・アピントン(en:Thomas Upington) (1884年 - 1886年)
  • ジョン・ゴードン・スプリッグ(二回目)(1886年 - 1890年)
  • セシル・ローズ(1890年 - 1896年)
  • ジョン・ゴードン・スプリッグ(三回目)(1896年 - 1898年)
  • ウィリアム・フィリップ・シュライナー(en:William Philip Schreiner) (1898年 - 1900年)
  • ジョン・ゴードン・スプリッグ(四回目)(1900年 - 1904年)
  • ランダー・スター・ジェイムソン(en:Leander Starr Jameson) (1904年 - 1908年)
  • ジョン・クサヴィエ・メリマン(en:John X. Merriman) (1908年 - 1910年)

ケープ植民地首相は南アフリカ連邦への編入により1910年5月31日をもって廃止された。

参考文献

この参考文献は翻訳元の英語版作成時に参考としたものであり、日本語版作成時には参考としていない。

  • Beck, Roger B. (2000). The History of South Africa. Westport, CT: Greenwood. ISBN 031330730X.
  • Davenport, T. R. H., and Christopher Saunders (2000). South Africa: A Modern History, 5th ed. New York: St. Martin's Press. ISBN 0312233760.
  • Elbourne, Elizabeth (2002). Blood Ground: Colonialism, Missions, and the Contest for Christianity in the Cape Colony and Britain, 1799-1853. McGill-Queen's University Press. ISBN 0-7735-2229-8.
  • Le Cordeur, Basil Alexander (1981). The War of the Axe, 1847: Correspondence between the governor of the Cape Colony, Sir Henry Pottinger, and the commander of the British forces at the Cape, Sir George Berkeley, and others. Brenthurst Press. ISBN 0-909079-14-5.
  • Mabin, Alan (1983). Recession and its aftermath: The Cape Colony in the eighteen eighties. University of the Witwatersrand, African Studies Institute. ASIN B0007C5VKA
  • Ross, Robert, and David Anderson (1999). Status and Respectability in the Cape Colony, 1750-1870 : A Tragedy of Manners. Cambridge University Press. ISBN 0-521-62122-4.
  • Theal, George McCall (1970). History of the Boers in South Africa; Or, the Wanderings and Wars of the Emigrant Farmers from Their Leaving the Cape Colony to the Acknowledgment of Their Independence by Great Britain. Greenwood Press. ISBN 0-8371-1661-9.
  • Van Der Merwe, P.J., Roger B. Beck (1995). The Migrant Farmer in the History of the Cape Colony. Ohio University Press. ISBN 0-8214-1090-3.
  • Worden, Nigel, Elizabeth van Heyningen, and Vivian Bickford-Smith (1998). Cape Town: The Making of a City. Cape Town: David Philip. ISBN 0864864353.

関連項目

外部リンク



ケープ植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)

南アフリカ共和国の歴史」の記事における「ケープ植民地」の解説

この地域始めてヨーロッパ人到達するのは1488年バルトロメウ・ディアス喜望峰到達したときである。やがてヴァスコ・ダ・ガマダーバン沖に来航し到達した日付にちなんでこの地をナタールポルトガル語クリスマス)と名づけた。 その後100年上もの間、都市特産物のないこの地域ヨーロッパ人興味を示さなかったが、やがて貿易さかんになるにつれ、海上交通要所である喜望峰周辺補給基地をつくる案が、当時海上交易覇権を握るオランダ東インド会社の中ででてきた。 1652年4月6日ヤン・ファン・リーベック率いオランダ東インド会社の4隻の船がテーブル湾上陸し補給目的とした入植地建設した。ここはケープタウン名づけられ、以後開拓拠点となった1657年には最初自由移民ケープ入植し1683年には内陸部初の拠点としてステレンボッシュ建設された。1688年から1689年にかけて、ナントの勅令廃止によって弾圧受けたフランスのユグノー200家族ケープ移住し以後少しずつ入植進んでいった。入植過程で、移民たちはオランダ人とは異な民族集団形成していき、ボーア人呼ばれるようになっていった。 ケープ社会ケープタウン都市社会と、地方広がる大農園、そしてその奥の牧畜民トレック・ボーア英語版))に大きく分かれていた。トレックボーアたちは、コイコイ人追い散らしながら奥地奥地へと進出していった。しかし、北は砂漠、東は強力な対抗者であるコーサ人出現によって、彼らの前進グレート・フィッシュ川止まりコーサ人とは1779年より断続的に戦闘状態がつづいた(コーサ戦争英語版))。

※この「ケープ植民地」の解説は、「南アフリカ共和国の歴史」の解説の一部です。
「ケープ植民地」を含む「南アフリカ共和国の歴史」の記事については、「南アフリカ共和国の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ケープ植民地」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



ケープ植民地と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ケープ植民地」の関連用語

ケープ植民地のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ケープ植民地のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのケープ植民地 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南アフリカ共和国の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS