マラヤ連合とは? わかりやすく解説

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マラヤ連合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 00:07 UTC 版)

マラヤ連合
ملايان اونياون (マレー語)
Malayan Union (英語)

1946年 - 1948年
(国旗) (国章)

マラヤ連合の位置
公用語 マレー語英語
首都 クアラルンプール
国王
1946年 - 1948年 ジョージ6世
総督
1946年 - 1948年 エドワード・ゲント
面積
1948年 132,364km²
人口
1947年 4,908,086人
変遷
成立 1946年4月1日
消滅 1948年1月31日
通貨 マラヤ・ドル
現在 マレーシア

マラヤ連合(マラヤれんごう、Malayan Union)は、英領マラヤ海峡植民地シンガポールは除く)による連合である。イギリスの直轄支配下におかれた。1946年4月1日に発足し、1948年よりマラヤ連邦へと移行した。

歴史

マラヤ連合の構想は、第二次世界大戦中の1943年にイギリスが作成していた。この構想では華人中心のシンガポールをムラユ人(マレー人)地域から分離させ、イギリスの海軍拠点とする戦略が示されていた。また、この構想では各州のスルタンの権限を制限し、民族の差異無く市民権を与えることになった。そのため、第二次世界大戦終結後の1945年10月にこの構想が示されると、ムラユ人の反発が引き起こされた。(民族の差異無く市民権を与えることは、将来的に増加する華人にとって有利であり、ムラユ人の権利侵害につながると考えられた。)

1946年4月1日、マラヤ連合は発足した。首都はクアラルンプールにおかれた。マラヤ連合の市民権は民族の区別無く平等に与えられ、市民権付与の条件としては、出生地主義の原則がとられた。スルタンの権限は縮小され、イギリスによる統制が強まった。しかし、ムラユ人の強い反発から、1948年にスルタンの権限を回復させ、マラヤ連邦への移行を余儀なくされた。マラヤ連邦では華人の市民権獲得は困難になった。

関連項目

参考文献




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